皆さんこんにちは。いよいよ夏本番ですね。暑さにはくれぐれもご留意ください。かわら版も今月から六年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。
(*)カッコ内は参照号
先達会と金剛頂寺のご住職
先達とは四国霊場を何度も巡礼した方々のこと。愛知県の四国公認先達会には四十七の講が参加しており、先月、先達会の会合が開催されました。
その会合にご来名された四国霊場二十六番札所・龍頭山光明院金剛頂寺(別名、土佐西寺)のご住職。わざわざ覚王山をご訪問くださり、お目にかかることができました。
ご住職はかわら版を編集部のホームページからいつも読んでくださっているそうです。ありがたいことでございます。ますます筆に力が入ります。合掌。
引越し三回の善篤寺
さて、今月ご紹介する名刹は善篤寺。日泰寺の東、姫池通を渡った先にある曹洞宗のお寺です。
覚王山周辺には清洲越しに関係する寺社仏閣がたくさんありますが、善篤寺はなんと三回も引越しを経験。岐阜県竹ヶ鼻村(現在の羽島市)から清洲へ移転したのが一回目。二回目は清洲越しによって大須に引越し。万松寺、大光寺とともに三名刹として大変栄えたそうです。昭和十六年、区画整理のために覚王山に移転したのが三回目。本堂は再建されましたが、山門は清洲越し以来のもの。一見の価値ありです。
曹洞宗と法華経
弘法大師が開いた真言宗の根本経典は大日経と金剛頂経。金剛頂寺の寺名は根本経典に由来します。
一方、善篤寺の曹洞宗は経典を唱えるよりも座禅を重視。とは言え、もちろん経典もあります。
曹洞宗の開祖、道元は法華経に拠り所を求め、如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)と観世音菩薩普門品(かんぜのんぼさつふもんぽん)がその代表格。ともに法華経の本門(五十九号)に属する経典です。
久遠実成と普門
如来寿量品が説くのは久遠実成(くおんじつじょう)。釈尊は今も衆生を導く存在であるという教え(五十九号)。
一方、観世音菩薩普門品の普門とはあまねく開かれた門という含意。観音様こと観世音菩薩(三十一号)の三十三応身(おうじん)が説かれていることから別名観音経(かんのうぎょう)。相手に応じて三十三種類の姿で現れ、すべての人を救う観音様の功徳を説いています。
三十三間堂(京都市)や西国三十三霊場など、三十三がつく仏跡は三十三応身に由来します。
道元が生前最後に読んだ経典は法華経の如来神力品(にょらいじんりきほん)。釈尊が法華経の尊さを後世の人に広めることを求めています。
豊川稲荷は曹洞宗のお寺
ところで、曹洞宗の二大系譜は永平寺派と総持寺派。愛知県には両派の代表的名刹があります。前者は豊川稲荷、後者は万松寺。
豊川稲荷の正式名は円福山妙厳寺(えんぷくさんみょうごんじ)。神社と思われる方が多いようですが、神仏習合の日本の伝統的宗教観を色濃く残した名刹です。仏教守護のご利益がある咤枳尼真天(だきにしんてん)という神様も祀っていることから、明治政府の神仏分離令を免れたそうです。
次回は大林寺
来月は臨済宗の大林寺についてお伝えします。臨済宗も禅を重んじますが、曹洞宗とは趣が異なります。乞う、ご期待。 第62号(平成19年8月)
皆さん、こんにちは。まだまだ残暑が厳しい日が続いていますが、くれぐれもご自愛ください。覚王山周辺の名刹をご紹介している今年のかわら版。今月は臨済宗の大林寺です
名古屋城と大林寺
日泰寺の東側、姫池通を渡った先にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
大林寺は寛永五年(一六二八)の創立。木造釈迦牟尼仏座像。尾張徳川家譜代の家臣、滝川一族の菩提寺として江戸時代には百石の寺領を持って栄え、最盛期の境内は五千七百坪余もあったそうです。
滝川家中興の祖、滝川忠征(ただゆき)は徳川家康により尾張徳川家の藩祖、義直(家康第九子)の佐役(年寄)を命じられ、名古屋城築城の普請奉行のとして活躍しました。
大林寺は名古屋城築城時の余材で建立。本堂東側の墓地には滝川一族の墓塔が並んでいます。
明治維新後の廃仏毀釈によって本堂が打ち壊され、その後は庫裏(くり)はを本堂代わりにしていたそうです。当初は今の白川公園の中にありましたが、戦時中の強制疎開で現在地に移転。本堂も再建されました。境内はよく手入れされ、本堂の裏にはりっぱな庭園もあり、由緒ある禅寺の風格を感じさせます。
只管打坐の曹洞宗、禅問答の臨済宗
さ七月にご紹介したのは曹洞宗曹洞宗、今月は臨済宗、いずれも禅宗です。曹洞宗は「何も求めることなく、無心、無条件に座禅を行うこと、只管打坐(しかんたざ)を説きます。一方、臨済宗は、沈思黙考、考えながらの座禅を薦めます。
臨済宗の座禅修行においては、公案(こうあん)という禅問答によって悟りの境地に至ることが重要視されています。
たとえば、「生きるとは何か」「千里先の火を消すにはどうしたらよいか」という問い(公案)です。万人に共通の答えはない難問ばかりです。
そんな由来から、禅問答という言葉は、「チグハグな問答」を表す場合によく使われますが、本当は「答えが難しい奥深い問答」を意味しています。
また、日常のすべてが修行であるとし、作務(掃除、仕事など)に真摯に取り組むことも重んじられます。
曹洞土民、臨済将軍
その昔、曹洞宗は農民や町民、臨済宗は公家や武家に広まり、曹洞土民、臨済将軍と言われたそうです。
臨済宗の日本での始祖は栄西。鎌倉を拠点とし、北条政子や源頼家らの鎌倉幕府をうしろだてに、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺が建立しました。こうした経緯も、臨済宗が公家や武家に普及した理由かもしれません。
建立当時の建仁寺は天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学の道場。弘法大師の真言宗ともご縁があるようですね。
茶道と一休さん
ところで、座禅を修行の基礎とする禅宗の祖は達磨大師、ダルマさんです。六世紀頃にセイロン(今のスリランカ)で生まれ、中国の少林寺で九年間も壁に向かって座禅修行を続けて悟りを開いたそうです。
日本に伝わって鎌倉時代に始まった禅宗の宗派が臨済宗と曹洞宗、江戸時代に始まったのが黄檗(おうばく)宗。覚王山の黄檗宗の名刹としては、かわら版五十七号(今年三月号)でご紹介した大龍寺があります。
禅宗でもうひとつ忘れてはならないのは栄西が中国からもちこんだ茶。当初は修行中の居眠り防止の飲み物だったそうです。茶飲の作法を考えたのは村田珠光。臨済宗の名刹、京都大徳寺の一休和尚のもとで修業を積み、茶の心得を教えられました。
次回は専修院
来月は日泰寺側、浄土宗の専修院。願いが叶うと軽くなる重軽地蔵で有名です。僕(筆者=大塚耕平)の中学高校時代の後輩がご住職です。乞う、ご期待。法然上人の「専修念仏」
日泰寺西側には黒塀の古い屋敷が並んでいます。そのひとつが専修院。浄土宗のお寺です。
浄土宗は中国の浄土信仰に由来します。浄土とはさまざまな仏様のそれぞれがいる場所のこと。特定の仏様を信仰し、その仏様のいる浄土に生まれ変わろうというのが浄土信仰。その中で人々の心を最も掴んだのが阿弥陀仏の極楽浄土信仰です。
鎌倉時代の長承二年(1133年)生まれの法然上人。中国の浄土信仰の大成者、善導の記した「散善義」という文章の中に「一心に阿弥陀仏の名を称えれば救われる。なぜならば、それが阿弥陀仏の願いだから」という記述を発見。そこで法然は専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説き、「南無阿弥陀仏」と称えれば誰もが極楽浄土へ往生できるという浄土宗が瞬く間に庶民に広がりました。
専修院の「専修」は、この「専修念仏」に由来しています。
弘法大師作の厄除地蔵
専修院のご本尊は阿弥陀如来像。尾張徳川家の息女(お姫様)の一人が嫁入りする際に守り本尊として賜ったものが、縁あって専修院のご本尊として祀られているそうです。
門を入って正面に鎮座しているのは厄除地蔵尊。蓮華の台座に立った大きなお地蔵様。弘法大師が42歳の厄年のお払いのために自ら彫った木像(京都の永観堂禅林寺に安置)を、石で彫り写したものだそうです。本堂の中には弘法大師像もあります。
ご本尊の横には伊勢神宮のご神木「本楠」で作られた薬師如来像。お寺に神社のご神木と聞けば神仏習合(神様は仏様の別の姿という考え方)が思い浮かびますが、神仏習合を普及させたのは弘法大師を開祖とする真言宗。専修院は浄土宗のお寺ですが、弘法大師とも縁の深いお寺のようです。
尾張が発祥の地、重軽地蔵
専修院には重軽地蔵もあります。この地蔵を持ち上げると、願いごとが叶うときは軽く、叶わない時は重くて持ち上げられないという不思議なお地蔵さんです。
各地の地蔵堂には、重軽地蔵、占い地蔵、重軽さま、重軽石、占い石と呼ばれるものがけっこうたくさんあります。日泰寺山門横の千躰地蔵堂にも重軽地蔵と重軽石があります。
これらは江戸時代後期に尾張地方から全国に広まったと言われています。
阿弥陀如来の印相(手の形)
ところで、阿弥陀如来の印相(手の形)は9つあります。人の生前の行いや信仰の篤さによって9つの往生の仕方があり、それを示したのが9印相。「品(考え方)」に上中下の3つ、「生(生き方)」も上中下の3つ、3×3=9の組み合わせです。
一番よく見られる上品上生(じょうぼんじょうしょう)は阿弥陀如来の禅定の姿。最も仏の教えを守った生き方をした人を救う印相です。
印相のほかに、立像が多いのも阿弥陀如来の特徴のひとつ。一刻も早く極楽浄土に連れていって欲しいという衆生の願いの表れと言われています。
次回は尼僧修行の正法寺
来月は日泰寺の東にある曹洞宗正法寺。日本で唯一の尼僧学林です。乞う、ご期待。
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第64号(平成19年10月)
皆さん、こんにちは。朝晩は肌寒くなってきました。くれぐれもご自愛ください。さて、今年のかわら版は覚王山周辺の名刹をご紹介しています。今月は曹洞宗の黄梅山正法寺です。
尼僧学林のある正法寺
日泰寺の東側、城山八幡宮の北側に位置する正法寺は、尼僧学林(尼僧堂)があることで知られています。
尼僧学林は、明治36年、尼僧教育の指導者、水野常倫師の提唱で春日井市の香林寺(薬師堂)に誕生。厳しい修行が宗門に認められ、明治38年に関西尼学林と称して正式な尼僧教育の場となりました。
大正元年、尼学林に感銘した梅本金三郎氏の篤志で名古屋市北区に移転。昭和20年、名古屋大空襲で焼失し、福巌寺(小牧市)、乾徳寺(中区)に寄留。昭和22年、学監の堀徳応師が住職を務めていた正法寺に移転。その後、高等尼学林、愛知専門尼僧堂、特別尼僧堂と名称を継いで今日に至り、現在の堂長は青山俊薫師。
一方、正法寺は、渋沢栄一翁とともに活躍した財界人佐治春蔵氏(佐治タイル創始者)の娘すず子さんが、父の死を悼み、昭和12年に自ら得度して建立したお寺だそうです。
「宗旨の祖」と「宗門の祖」
曹洞宗は坐禅を通じた悟りを目指し、ひたすら坐禅に打ち込むことを只管打坐(しかんたざ)と言います。
開祖は道元と、道元から数えて4代目の弟子瑩山(けいざん)のふたり。
道元は中国で曹洞宗を学んで帰国。日本にはまだ曹洞宗という名前はありませんでした。
京の都の喧騒から逃れ人里離れた福井に永平寺を創立(1244年)。静かな環境で思索と坐禅によって得た境地を正法眼蔵という書に表しました。正法寺の「正法」はここから来ているようです。
教団としての曹洞宗を整備したのは瑩山。道元の弟子、懐弉(えじょう)、義介(ぎかい)の下で修行を積み、能登に総持寺(そうじじ)を開山(1321年)。総持寺はもともと真言宗のお寺でしたが、瑩山が禅院として再興。弘法大師ともご縁があるようです。総持寺は明治時代に焼失、現在の横浜市に移転しました。
こうした経緯から、曹洞宗では道元を「宗旨(宗派の教義)の祖」「父=高祖さま」、瑩山を「宗門(教団)の祖」「母=太祖さま」と呼び、永平寺と総持寺がそれぞれの本山となっています。
修行僧の雲水(うんすい)さん
禅僧になるための修行中の僧を雲水と言います。行く「雲」のごとく、流れる「水」のごとく正しい師と教えを求めることに由来します。
お遍路さんの装いに決まりがあるように、雲水さんの服装も独特です。
丸いお椀を逆さまにしたような網代笠(あじろがさ)、腕まくりをしたような黒い七条袈裟(しちじょうけさ)、修行生活に必要な持ち物を入れる袈裟文庫=行李(こうり)と後附け(あとづけ)。後附けは風呂包みのように背中に結わえます。
お遍路さんの背中に「同行二人」と書いてあるように、雲水さんの首にかかる頭陀袋(ずだぶくろ)には「行雲流水」と記されています。
正法寺尼僧堂では外国人の雲水さんもたくさん修行しているそうです。弘法さんの縁日には托鉢で日泰寺参道を往来していますので、是非声をかけてあげてください。
次回は西蓮寺
来月は日泰寺舎利殿の南東にある浄土宗の西蓮寺(さいれんじ)。池の中に姫池地蔵が鎮座しています。乞う、ご期待。
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第65号(平成19年11月)
皆さん、こんにちは。今年もあとひと月あまり。早いですね。朝晩の冷え込みも厳しくなりました。くれぐれもご自愛ください。さて、覚王山周辺の名刹をご紹介しております今年のかわら版。今月は浄土宗の西蓮寺です。
阿弥陀如来のお迎え=来迎引接
西蓮寺は日泰寺の東側にあり、5月号でご紹介しました台観寺の隣です。
山号、院号は引接山来迎院(いんじゅうさんらいごういん)。ご本尊は阿弥陀如来です。
仏教では、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩の阿弥陀三尊が二十五菩薩を従え、新仏を極楽浄土の彼方から迎えに来ることを来迎引接(らいごういんじゅう)と言うそうです。
引接寺という寺号は全国各地にありますが、山号に引接が使われているのは珍しいですね。
弘法堂と弘法大師尊像
西蓮寺は寛政10年(1798年)、愛知県丹羽郡に釈迦堂として創建。明治38年(1905年)に京都西蓮寺と合併し、大正5年(1916年)に覚王山に移転しました。現在は、浄土宗七大本山のひとつ、京都清浄華院の末寺となっています。
境内に池ノ端弘法堂や朱塗りの極楽橋が造営され、弘法堂には明治42年、高野山金剛峯寺において開眼された弘法大師尊像が祀られました。
姫ヶ池と放生池
池ノ端弘法堂というぐらいですから、池が関係しています。西連寺周辺にはその昔、三つの池があり、そのひとつが姫ヶ池。現在の松坂屋ストア辺りに昭和4年までありました。
戦国時代、敵勢に追われた織田家末森城(現在の城山神社)の姫たちが逃げ場を失って池に身を投げたとも伝えられています。西蓮寺の池の中には姫池地蔵が祀られ、子宝・子育て信仰の対象となっています。
姫ヶ池の北(現在の奉安塔付近)にあったのが西どろあき池と東どろあき池。幕末には、西泥目池、東泥目池と呼ばれたそうです。
その後、西どろあき池は日泰寺の放生会(ほうじょうえ)に使われたことから放生池と呼ばれ、子どもの遊び場となりました(筆者もよく遊んでいました)が昭和58年に埋め立てられました。
放生とは捕らえた魚や鳥を逃がしてやること。人間は日頃の生活で多くの殺生を行っていることから、功徳を積む意味で放生という考え方が生まれました。起源は中国。日本では天武天皇の命で始まりました。
難行と易行
西蓮寺のご本尊である阿弥陀信仰を説いたのが浄土教。浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を経典とします。
厳しい修行を積んで悟りに至ることを難行(なんぎょう)と言うのに対し、浄土教では阿弥陀さまを信仰し、南無阿弥陀仏と唱えれば救われるという易行(いぎょう)を推奨。難行のできない庶民に広まりました。
日本では、法然上人の開いた浄土宗、その弟子である親鸞聖人の開いた浄土真宗、孫弟子の一遍上人の開いた時宗などが浄土教にあたります。
明後日の「弘法さんを語る会」(詳細は裏面)の会場も浄土宗の専修院。弘法大師は真言宗ですが、もとを辿ればどの宗派もお釈迦さまの教えから誕生。専修院にも弘法大師像が祀られており、仏教はひとつであることを感じさせられます。興味深いですね。
次回は松林寺
来月は日泰寺の南西にある曹洞宗の松林寺。本堂は千種区内最古の木造建築物と言われています。乞う、ご期待。
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第66号(平成19年12月)
皆さん、こんにちは。今年もかわら版をご愛読頂きましてありがとうございました。来月からは足かけ七年目。今後ともどうぞよろしくお願いします。さて、覚王山周辺の名刹をご紹介してきました今年のかわら版。今月は曹洞宗の万祈山(ばんしょうさん)松林寺です。
丸山村の鎮守寺
松林寺は日泰寺の南西、広小路を渡った住宅街の中にあります。近接する丸山神明社は承久三年(1221年)以前の創建であり、松林寺周辺は中世から集落があった地域のようです。
松林寺自身は元亀二年(1571年)に丸山村の鎮守寺として創建。
本堂は嘉永六年(1853年)建立。千種区内で最古の木造建築物のひとつと言われています。
本堂の西側には弘法大師や三十三観音を祀ったお堂があります。また、境内の無縁塚には延宝とか元禄という元号が刻まれた墓石があり、丸山村と松林寺の歴史を偲ばせます。
ご本尊はお薬師様
禅宗に属する曹洞宗の宗旨の祖(父=高祖)道元(注)は、お釈迦様が菩提樹の下で座して瞑想する中で悟りを開いたことを禅の原点としました。そのため、曹洞宗のご本尊は釈迦牟尼仏(釈迦如来)とするお寺が多いですが、松林寺のご本尊は薬師如来です。
(注)10月号でもご紹介しましたが、曹洞宗では道元を「宗旨(宗派の教義)の祖」「父=高祖」、瑩山を「宗門(教団)の祖」「母=太祖」と呼び、永平寺と総持寺がそれぞれの本山となっています。
お薬師様(薬師如来)は病気を治してくださることから、別名医王如来。ほかにも衣食充足などの現世利益を施してくれるお薬師様がご本尊になっていることが、松林寺が村人によって建立された鎮守寺であることの裏づけとなっているようです。
薬師如来は左手に薬壺(やっこ)を持っているのが特徴。脇侍の日光菩薩、月光菩薩や十二神将を従えています。松林寺には両脇侍に加え、十二神将のひとり、毘沙門天が祀られています。
丸山神明社の秋葉常夜灯
ところで、丸山神明社には天保5年(1834年)村中安全と彫られたこの界隈では珍しい秋葉常夜灯があります。
常夜灯は秋葉信仰から生まれた風習です。秋葉山は秋葉大権現という防火の神様がいるご神体山(静岡県浜松市)。初めて社が建ったのは和銅2年(709年)。秋葉山に通じる街道は秋葉道とか秋葉路と呼ばれ、道標と信仰の象徴として燃えにくい石造りの常夜灯が建てられるようになりました。
秋葉信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広がり、秋葉講の開設や常夜灯建立が行われました。
秋葉山には神仏習合の聖地として秋葉神社と秋葉寺がありましたが、明治維新の廃仏毀釈の影響もあって秋葉寺は廃寺。ご本尊の秋葉大権現は静岡県袋井市の可睡斎(かすいさい)という曹洞宗のお寺に祀られています。
そういえば、日泰寺参道にも二十年前ぐらいまで、秋葉常夜灯のような灯篭がたくさんありましたね。
尾張四観音を結ぶ四観音道
松林寺の西側には四観音道(しかんのんみち)の一部である笠寺道が通っていました。
四観音は荒子・甚目寺・竜泉寺・笠寺の尾張四観音。いずれの観音も創建から千数百年以上を経た古刹。徳川家康が名古屋城築城に際し、城の鬼門の方角にある四観音を鎮護寺に定め、それぞれを結ぶ道として四観音道ができました。
来年は弘法大師の生涯
さて、来年のかわら版では弘法大師の生涯をご紹介します。乞う、ご期待。それでは皆さん、良い年をお迎えください。