第67号(平成20年1月


明けましておめでとうございます。かわら版も足かけ七年目に入りました。今年もどうぞよろしくお願いします。さて、今年のかわら版は弘法大師の生涯をお伝えします。

五つの名前を持つ弘法大師

 弘法大師は宝亀五年(七七四年)六月十五日讃岐国(香川県)の豪族、佐伯氏の三男として誕生しました。四国霊場七十五番札所五岳山誕生院善通寺の近く、現在の屏風ヶ浦です。
 最初から弘法大師という名前だったのではありません。幼少の頃は真魚(まお)と呼ばれ、その後、無空空海遍照金剛、そして弘法大師と変遷。
 もっとも、弘法大師という諡号(しごう)は、入定(没)の八十六年後、醍醐天皇から賜ったものです。

前途洋々の真魚の出奔(しゅっぽん)

 兄二人が幼くして亡くなったため、真魚は三男でありながら佐伯家の跡取りとして育てられました。
 父方の佐伯氏は国司(武人)の家系で、古くは大伴氏が源流。母方の阿刀(あと)氏漢学者儒学者の家系です。
 文武両道の家系を継ぎ、四国の豊かな自然の中で伸び伸びと育ったのが弘法大師の幼少期です。
 十五歳で都(長岡京)に上京し、母方の伯父、阿刀大足(あとのおおたり)氏に師事して漢学を学び、十八歳で大学に入学しました。
 当時の大学は長岡京に一校あるのみ。家長の身分が従五位以上の子弟でなければ入学できない官吏養成の最高学府。真魚の前途は洋々だったと言えます。
 当時の教育は漢学儒学が基本。忠孝を尽くして官位を高め、富と名声を得ることが名誉とされていました。
 ところが、真魚は立身出世を競い合う友人たちに空しさを感じ、やがて大学を去って出奔。本当の生き方を求めて山岳修行身を投じ、無空と名乗りました。

三教指帰と空海誕生

 生き方を求める中で真魚は仏教に目覚め、二十四歳の時に最初の著書、三教指帰(さんごいうしいき)を執筆。人間としての悟りと社会の安寧を求める仏教の素晴らしさを説きました。
 この著書は親族に対して書いたものと言われています。将来を期待されていた真魚の出奔への批判に対し、「人間の悟りと社会の安寧を求める生き方がなぜ非難されなければならないのか」という問いかけでした。
 こうして真魚は自ら私度僧(得度を受けていない修行僧)となり、この頃から空海を名乗るようになりました。

歳弘法と寅薬師

 ところで、日泰寺参道の中ほどに歳弘法があります。空海生誕から入定(にゅうじょう、六十二歳)までの像が祀られていますので、是非ご覧ください。
 日泰寺舎利殿の東側には寅薬師と呼ばれる玉壺山覚鳳寺(ぎょっこさんかくほうじ)真言宗の名刹です。行基作と言われる薬師如来のほか、弘法大師の生涯を描いた貴重な絵が祀られています。
 今年のかわら版、歳弘法と寅薬師についてもご紹介させて頂きます。

空海、中国(唐)に渡る

 さて、来月は空海三十一歳での中国(唐)への留学。空海はその後の人生を左右するふたりの重要人物と出会います。乞う、ご期待。

kobosan-kawaraban kobosan-kawarabankobosan-kawaraban kobosan-kawaraban