第69号(平成20年3月


 
皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですね。今月は正御影供(しょうみえく)、弘法大師のご命日です。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は恵果和尚との運命的な出会いの復習から始めます。

★ 恵果和尚と空海

延暦二十四年(八〇五年)、長安で三ヶ月間、密教の極意を学んだ空海。寄宿していた右街西明寺(さいみょうじ)から、恵果和尚の左街青龍時(せいりゅうじ)まで、毎日往復したそうです。

恵果和尚は、当時一流の宮廷絵師李真(りしん)たちに、空海のために曼荼羅、祖師図などの密教法具を制作させました。

同年八月、空海は結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け伝法阿闍梨遍照金剛(でんぽうあじゃりへんじょうこんごう)となり、それを見届けるように、恵果和尚は十二月十五日入寂。実に運命的な出会いでした。

★ 高階遠成の帰国船

一刻も早く密教奥義を日本に伝えたい空海。留学生(るがくしょう)=私費留学生の空海は本来二十年間帰国禁止。罰せられることを覚悟のうえで帰国を目指します。しかし、そもそも船がなければ帰国できません。

ところが翌年、桓武天皇が崩御。平城天皇(へいぜいてんのう)の即位に伴い、元号も改まった大同元年(八〇六年)、急遽、判官高階遠成(たかしなのとおなり)の船が日本に向かうこととなりました。空海は高階遠成に事情を説明し、運良く乗船を許されました。

★ 日本三筆、嵯峨天皇と橘逸勢

帰国した空海は、京に向かう高階遠成に密教法具の目録を委ねます。しかし、留学期間を勝手に短縮したことや、平城天皇が新しい密教に関心を示さなかったことから、太宰府(九州)観世音寺に足止め。空海三十三歳の時です。

その後、和泉国(大阪)槙尾山施福寺に移り、大同四年(八〇九年)、三十六歳の時にようやく入京が許され、高雄山神護寺に滞在します。

入京のきっかけは、平城天皇の崩御に伴う嵯峨天皇の即位。嵯峨天皇の奥方は橘喜智子。空海と一緒に入唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)の従兄弟。

空海の達筆を熟知していた橘逸勢。そのことは橘喜智子を通じて嵯峨天皇の知るところとなり、書道に通じた嵯峨天皇は早くから空海に一目置いていたと言われています。

その嵯峨天皇、橘逸勢、空海の三人は、やがて日本三筆と称されます。歴史の偶然は神秘に満ちています。

★ 最澄と和気氏と神護寺

ところで、入京後の空海が滞在した神護寺は洛西の北端、高雄山中腹にある古刹。平安京遷都の功臣、和気(わけ)氏の氏寺。そして、和気氏は既に名声を得ていた最澄の施主(後ろ盾)、言わばスポンサーです。

空海と同じ遣唐使船団で入唐した還学生(げんがくしょう)=国費留学生の最澄は、空海に先んじて帰国。しかし、密教奥義を極めるに至らず、空海からそれを学びたいと考え、和気氏の氏寺に空海を招きました。

★ 大器晩成の空海

三十三歳で帰国、三十六歳で入京を許され、本格的な活動を開始する空海。当時の寿命を考えると、大器晩成型の人生ですね。日泰寺参道中ほどの歳弘法でその頃のお顔をご覧ください。弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師。今月は恵果和尚から結縁灌頂を受ける空海の姿です。

★ 高雄山神護時での空海

来月は三十七歳で嵯峨天皇が帰依、三十九歳で最澄らに結縁灌頂を授ける神護寺での空海の活躍をお伝えします。乞う、ご期待。


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