第203号(令和元年5月

皆さん、こんにちは。令和元年、新緑の季節になりました。つい薄着になりがちですが、風邪など召されぬように、くれぐれもご自愛ください。

今年は 実録覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史を探訪しています。

★石川舜台

一八九八年(明治三十一年)、インドとネパールの国境近く、ピプラーワーで発見された本物の仏舎利(お釈迦さまのご真骨)が仏教国タイのチュラロンコン国王から日本に分骨されることになりました。

駐タイ公使 稲垣満次郎青木周蔵外相ら仏舎利奉迎使節団の派遣を要請された仏教界。いち早くこれに呼応したのは東本願寺(真宗大谷派)の当時の実力者、 石川舜台参務でした。

その背景にはふたつの理由があったようです。

ひとつは、当時は日本仏教が廃仏棄釈の受難から日本仏教が復興し始めた時期。仏舎利奉迎を主導することで、大谷派が仏教復興の中心的役割を果たそうと考えていたようです。

もうひとつは元陸軍の岩本千綱との関係。岩本は退役後にタイに渡り、タイの王室や要人とも知遇を有する存在でした。

チュラロンコン国王の方針を知らされた東京滞在の リッティロン・ロナチュート駐日タイ公使は、旧知の岩本に分骨・奉迎事業が円滑に進むよう、協力を要請しました。

そこで岩本は、交流のあった石川舜台にその旨を伝えたそうです。人間関係のご縁というのは不思議なものですねぇ。

★釈尊御遺形奉迎使節団

    

石川の努力もあって、日本への分骨決定から二ヶ月後の一九〇〇年(明治三十三年)四月 、当時の主要十三宗五十六派の管長が協議し、仏舎利拝受を決定するとともに、帝国仏教会が組織されました。

    

帝国仏教会は仏舎利仮奉安所と奉迎事務所を京都妙法院に設置。

貴族の子弟が歴代住持を務める別格寺院を門跡言いますが、妙法院は青蓮院、三千院とともに天台三門跡と称されてきた古刹です。

協議の結果、タイに派遣する仏舎利奉迎使節団は以下の奉迎正副使四人、随行者十四人の合計十八人で結成されることとなりました。

正使は東本願寺の次期法主に内定していた大谷光演(句仏上人)

この時、若干二十五歳。光演の教育係は名古屋生まれの明治の学僧、仏教改革者として著名な清沢満之(まんし) 。光演が奉迎する仏舎利が、後に名古屋に奉安されることになるのも奇縁です。

副使は曹洞宗の日置黙仙(後の永平寺貫主)、浄土真宗本願寺派の藤島了穏、臨済宗の前田誠節

随行者の筆頭、南条文雄は日本の文学博士第一号。語学に堪能で、バンコクでの奉迎事業では大活躍したと伝わっています。

なお、奉迎使節団の正式名称は釈尊御遺形奉迎使節団。「遺形」は「いけい」または「ゆいぎょう」と読みます。仏舎利に敬意を表した表現です。

五月二十二日、奉迎使節団は京都を出発。翌二十三日、神戸港から博多丸で出航。翌二十四日に門司に入港し、二十六日朝、タイに向けて日本を離れました。

使節団は、香港、サイゴンを経てシンガポールに上陸。六月八日、シンガポール号に乗り換えて出航。六月十一日、バンコクに到着しました。

当時の新聞によると、バンコクでは花火が打ち上げられ、街中に日本とシャムの国旗が掲揚され、歓迎の人々で溢れていたそうです。

★ワット・ポー寺院

いよいよバンコクでの仏舎利分骨、奉迎の式典です。六月十九日にバンコクを離れるまでの九日間。この間、奉迎使節団はワット・ポー寺院で仏舎利を拝受します。来月はその模様をお伝えします。乞ご期待。

 

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