第206号(令和元年8月

皆さん、こんにちは。立秋が過ぎたとは言え、まだまだ猛暑、酷暑の夏真っ盛り。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は 実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。京都に仮奉安されたご真骨
(世界的に本物と認められている仏舎利)。いよいよ最終奉安地の選定です。

★日本大菩提会

タイに行った 奉迎使節団は、ご真骨を贈与される際にチュラロンコン国王に大事な約束をしました。帰国後にご真骨奉安のための超宗派寺院を創建するということです。

満足した国王はご本尊としてタイの国宝である釈尊金銅仏を下賜。さらに、寺院創建に際して木材の寄進も申し出。超宗派寺院創建の約束、果たさないわけにはいきません。

使節団がタイに到着した一九〇〇年(明治三十三年)六月十一日、日本ではまさしくその日に帝国仏教会を改組して日本大菩提会を創設。

会則第二条は次のように記しました。曰く「本会は釈尊の御遺形を奉持するため覚王殿を建築するを以って目的とす」。

お釈迦さまは「覚りを得た王」という意味で別名「覚王」。したがって、新たに建設するご真骨奉安寺院は「覚王殿」と呼ばれました。

日本大菩提会は、覚王殿に関して敷地十万坪以上、経費一千万円以上という壮大な構想を打ち上げ。現在の東本願寺の敷地が二万二千五百坪。十万坪の土地は容易には確保できません。

建設費の一千万円は膨大な金額です。例えば、米の価格(当時約一円、現在約三千円)で比較すると三千億円、入浴料やコーヒー(いずれも当時約二銭、現在約五百円)で比較すると約二千五百億円、会社員の初任給(当時約十円、現在二十万円)で比較すると約二千億円です。

比較の基準にもよりますが、いずれにしても当時の一千万円は現在のほぼ二〜三千億円に相当する金額です。

★伊藤満作

使節団がタイを訪問している間に、帝国仏教会は覚王殿の予定平面図の作成を依頼しました。

依頼先は名古屋の設計士伊藤満作。真宗大谷派と関係が深く、尾張藩の工匠棟梁であった伊藤平左衛門の一族です。

ご真骨が長崎に到着した七月十二日、縮尺千五百分の一の平面図が完成しました。

名古屋が最終的に覚王殿の有力候補地になったことに、最初の設計に関わったのが名古屋の伊藤満作であったことも影響したのかもしれません。

★外山義文

ご真骨が京都の東山妙法院に仮安置されてから一年が経過。タイのチュラロンコン国王に約束した覚王殿、すなわち超宗派寺院の建設地は一向に決まりません。

そんな中、駐タイ領事外山義文はチュラロンコン国王より再三再四、日本での検討状況を尋ねられました。

進展が捗々しくないことから、木材や資金を早く寄進したいチュラロンコン国王はご立腹。

また、国王が計画している仏教図書館に、日本の各宗派から寄贈することになっていた書籍の提供も進んでおらず、日本として非常に面目ない状況に陥っていたそうです。

一九〇一年(明治三十四年)十一月二十六日、業を煮やした外山領事は、大日本菩提会の会長村田寂順師と副会長前田誠節師に書簡を送り、次のように申し伝えたそうです。

曰く「国王との約束の重さを自覚し、日本仏教徒の恥とならぬよう、早急に対処されたい」。

折しも翌一九〇二年(明治三十五年)秋、タイのワチラーウット皇太子(後のラーマ六世)が米国から帰国の途上に日本を訪問することになりました。

帝国仏教会は皇太子来日までに、建設地だけでも決定しておかねばならないという切迫した状況に追い込まれました。

折しも翌一九〇二年(明治三十五年)秋お尻に火がついた仏教界。一九〇二年(明治三十五年)一月、各宗派管長による会議が開かれ、奉安地選定委員会を設置。候補地を調査、選定するように命じました。

★名古屋浮上

さて、いよいよ候補地として名古屋が浮上 します。 吉田禄在、加藤慶二どの尽力によるものです。詳しくは来月。乞ご期待。

 

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