耕平さんかわら版   144号(平成26年6月

 皆さん、こんにちは。今年は少々早い梅雨入りでしたね。腰痛や神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

 お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。今月は「平常心」についてです。

 さて、サッカーワールドカップが始まりました。日本チーム、頑張ってください。スポーツ選手が「平常心で頑張ります」と発言するのを聞くことがあります。もちろん、政治家である僕たちも時々その表現を使います。

 この「平常心」。実は仏教用語で、禅宗の教えの中に登場する言葉です。

 日常的には「へいじょうしん」と読みますが、仏教用語としては「びょうじょうしん」とも読むそうです。

 一般的には「普段どおり、日頃の心」あるいは「リキんだり、緊張しない心」という意味で使っています。僕もそうです。

 ところが、元々は中国の馬祖(ばそ、七○九〜七八八年)という禅僧の語録に登場する言葉です。その部分の現代語訳をご紹介します。

 「仏法の悟りを会得しようと思えば、平常心がこれ悟りである」

 「では、平常心とは何か」

 「意図して作られたものではなく、善悪の分別がなく、取捨選択することがなく、来世があるとかないとかの悩みがなく、凡夫とか聖人とかの偏見がない心である」

 さて、いかがでしょうか。

 「善悪の分別がなく」とは、ものごとの価値は人の好みの問題であり、自分の考えだけでものごとを善悪に区別してはいけないという意味です。悪いことをしてよいという意味ではありません(笑)。

 そして、自分の好みや考えで取捨選択したり、人を評価して区別することもしない。死後のことで悩まない。これらの心構えは、意図してつくられるものではない。ということを教えています。「自然(じねん)心」とも言うそうです。

 無門慧開(むもんえかい、一一八三〜一二六〇年)という禅僧の問答にも登場します。曰く「平常心が是れ道なり」。

 無門慧開は、お釈迦様の教えに従って身も心も律していけば(つまり「道」を追求すれば)、「平常心」は自ずと備わり、そして「平常心」を会得することが「道」でもあると説いています。まさしく禅問答(公案)。

 多くの人が「平常心」を意識して行動すれば、争いごとや不安の少ない社会になりそうですね。「平常心」の教え、僕自身の仕事にも活かしていきたいと思います。では、また来月。


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