耕平さんかわら版   148号(平成26年10月

 皆さん、こんにちは。秋本番。朝晩は寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。

 お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。先月は「覚(さと)り」と「解脱(げだつ)」の違いを学びました。これで「分別(ふんべつ)」のある人間になれたような、なれないような。いやいや、そんな簡単にはなれませんねぇ。

ところで、私たちは日常会話の中で知らず知らずに仏教用語を使っています。「分別」もそのひとつ。

「あの人は無分別だねぇ」と聞けば「道理をわきまえない人だ」「物わかりの悪い人だ」という印象を受けますが、実は全く逆の意味。

「分別」には、何かを区別する、差別するという意味があり、仏教では「無分別」はむしろ良いことです。

「あの人は正しい人だ」「あの人は邪(よこしま)な人だ」と何を基準に言えるのでしょうか。「正邪」の基準は偏(かたよ)りがあるかないか。お釈迦様はそのように教えてくれています。

偏りのない生き方や考え方、つまり中道(ちゅうどう)であることが「正しい」状態であり、極端なことは「邪」と諭しています。

「善悪」も同じ。お釈迦様は「自分にも他人にもためになる」ことが「善」、「自分のためにはなるが、他人のためにはならない」ことは「悪」だと教えています。

自分のためだけになることには偏りがあります。偏ることは「邪」であり「悪」。自分のことだけを考える人、自己主張が強い人は「邪悪」と言うことでしょうか。「な〜るほどぉ」という感じです。

「あなたは人を裁(さば)いていませんか」「ほらほらまた裁いた」と言って、面白おかしく心のあり様を説いてくださる高僧もいます。

自分の考えで人や物ごとを「分別」して「裁く」ことは、中道ではなく、何か偏った状態です。

自分の意見にも一理あるが、相手の意見にも一理ある。さて、バッサリと「分別」して「裁く」ことで丸く収まるでしょうか。

「分別」は「差別」にもつながり、争いごとは深層心理の中にある「差別」の心から生まれます。そう言えば、往々にして戦争や紛争は、国家や民族や宗教の優劣意識、つまり相手を「差別」することに端を発しています。

ひとりよがりでない、「無分別」で「中道」な人になりたいものです。

仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。ではまた来月。


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