耕平さんかわら版   178号(平成29年4月

  

 皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。とは言え、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

 今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

この「かわら版」もまもなく十七年目に入ります。よく続くものだと自分でも思いますが、それもこれも、配ってくださるボランティアの皆さん、受けとってくださる参拝者の皆さんのおかげです。

ここまできた以上は意地でも続けます。と言って気がつくわが身の愚かさ。実は「意地」という言葉も仏教用語なんです。

「意地」の「意」を見て何か思い出しませんか。般若心経の一節に出てくる「眼耳鼻舌身意」の「六感」の最後の字が「意」でしたね。

「眼耳鼻舌身」の五感に第六感の「意」を加えて「六感」でした。

前半の五感から得た情報を裁いて結論づけるのが「意」です。つまり、自分の固定観念、先入観、潜在意識から、五感で得た情報を「気持ちいい」とか「気持ち悪い」と判断します。

そして「意地」の「地」は、地面、地盤、大地の「地」。自分の固定観念、先入観、潜在意識の地盤ですから、ずいぶん偏った強固な岩盤ですね(笑)。

「意」はサンスクリット語の「マナス」の漢訳。心や判断という意味です。

自分が「意地」になれば、相手も「意地」になる。何かに「意地」になれば、柔軟性のない自らの対応が、思い通りにならない苦しい状況に自らを追い込みます。

「意地」にならずに、自然体で、気楽に、気楽に。

そう言えば「意地悪」などという言葉がありますね。これは仏教用語の語源どおりに使われている例と言えるでしょう。内面、内心の意識が悪いという意味ですから、まさしく「意地悪」。「底意地が悪い」と言えば、固定観念の地盤のさらに底から悪いということですから、相当に性格の悪い人ですね(笑)。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」。夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の一節です。

そうそう、「意地」を通せば窮屈になり、ただでさえ住みにくい人の世が、ますます嫌になります。自然体で、気楽に、楽しく、生きましょう。

「意地」になるのは、心に「意地」があるからです。般若心経の大切な教えは「無」「空」「行」でした。「行」を重ねて「無」「空」を覚れば「意地」も消えます。めでたし、めでたし。

それではまた来月まで。合掌。

kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban