耕平さんかわら版   179号(平成29年5月

  

 皆さん、こんにちは。ゴールデンウィークも過ぎ、初夏の季節となりました。新緑も爽やかですが、体調を崩しやすい季節の変わり目。くれぐれもご自愛ください。

 今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

 「愚痴」「我慢」「迷惑」「意地」が仏教用語であることを知り、ずいぶん分別がついてきました。これで心穏やかに過ごせます。

 などと思って得心したわが身の分別。この「分別」も仏教用語です。

 「分別」は文字通り「分けること」「別にすること」。何と何をでしょうか。

 ここで答が連想できた人は、だいぶお釈迦様の教えが身についているようです。

 「分別」とは、自分と自分以外、あるいは自分の考えと自分以外の考えを分けることを意味します。

 自分は特別、ほかの人とは違う、自分の考えが正しいなどと思っているとしたら、ずいぶん自信過剰、傲慢なことです。

 「あの人は迷惑だ」「あの人には我慢ならない」などと憤り、「意地でも許してやらない」「ああ嫌だ」と言って愚痴をこぼすことは、自分とあの人を分別していることです。

 何やら仏教用語のオンパレードですね(笑)。

 「分別」は、自分の固定観念、先入観、潜在意識で形成されている自分の価値観。その価値観で自分と自分以外、自分の考えと自分以外の考えを分けること、別にすることが「分別」です。

 その結果、人間関係が悪くなるとそれば、その原因は相手だけにあるのではありません。自分にも「分別」の原因があることに気づくことが大切です。

 したがって「あの人は分別がある人だ」「私は分別がある」という表現は、仏教的には後ろ向き。「あの人は傲慢です」「私は傲慢です」と言っているのと同じです。

 仏教的には「分別がないこと」「無分別」は良いことです。

 人間、とかく日常生活で文句や愚痴が口から出ます。人間くさくて良いですね。でも、行き過ぎると、自らの文句や愚痴でだんだんストレスが溜まり、憂鬱になってきます。

 社会や人間関係に不満や不足の思いがあると、文句や愚痴につながります。不満や不足の思いは、突き詰めると、自分の「思い通りにならない」「思い通りになっていない」ことが原因です。

 分け隔てなく、人の意見に耳を傾け、何ごともありのままに受け入れる。それが仏教の精神です。

 分け隔てなく、分かり合うためには話し合うことが重要ですが、お釈迦様は「話し合うことは聞き合うこと」と教えています。

 争いごとが起きたときは、お互いに自己主張するのではなく、相手の言うことを聞き合うことこそ大切です。

 それではまた来月まで。ごきげんよう。合掌。

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