耕平さんかわら版   182号(平成29年8月

  

  皆さん、こんにちは。夏も佳境です。いかがお過ごしですか。夏バテにならないように、くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 さて、今年のお盆休みは何日間ぐらい取れますか。中にはお盆休みどころではないという方もいると思いますが、多くの皆さんにとってはまとまった休みが取れる貴重な機会。帰省して旧友と会ったり、家族と旅行に行ったり、年に一度の大切な時間ですね。

 しかし、普段忙しくしている皆さんの中には、休みも後半になると、何だか退屈するという人もいるかもしれません。この「退屈」、実は仏教用語です。

 「退屈」の「屈」は「屈する」、「退」は「退く」という意味。読んで字の如し。何かに「屈して」「退く」状態が「退屈」です。

 仏教用語としての「退屈」は、仏道の修行に耐えられず、断念し、屈し、仏道の歩みから退くという意味を表しています。「退屈」は仏教の教えの中でも重要な言葉のひとつです。

 何かに「退屈」するということは、自分が目指した目標を断念したり、目標を実現するための努力を怠ったり、目標実現の障害や妨げに屈し、目標に向けた歩みから撤退するという意味です。

 「休みに退屈した」というのは、休みが長い証(あかし)ですから結構なことです。でも、休み中にやりたいことがあれば、時間はいくらあっても足りないかもしれませんね。

 「仕事に退屈した」とか「人生に退屈した」となると、少々心配です。仕事にも人生にも障害はつきものです。それを乗り越えるところに仕事や人生の面白さがあります。どんな仕事、どんな人生にも無駄なことはひとつもありません。仕事を活かせるか否か、人生の中から何かを得るか否かは本人次第。退屈するようでは困ります。

 8月中旬にもなると、子ども達の夏休みも後半戦。元気な子ども達には夏休みはいくらあっても足りませんが、スマホでゲームばかりしている子どもには、少々退屈な気持ちになる時期です。ゲームに飽きるのは、ゲームは人から与えられたものを単にこなしているだけで、自分で考え、目指し、作り、努力する、という行為ではないからです。

 仏教は生きるための哲学です。自分の思いどおりにならないことを何とかしたいという「欲」とどう向き合うかを教えています。「退屈だぁ」と思う深層心理は「この退屈を何とかしてほしい」という身勝手な「欲」と関係しています。そういう心が「退屈」という状態を生み出します。

 自分自身の心を見つめ、「退屈」しない気持ちで仕事や人生と向き合い、生き生きと過ごしていきたいものですね。合掌。

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