耕平さんかわら版   185号(平成29年11月

  

  皆さん、こんにちは。もう十一月、冬がそこまで来ています。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 仏教は生きるための哲学。いろいろ悩みがある時には、仏教の教えが心に染み入ることがあります。

 人間はなぜ悩むのか。それは「欲」があるからだと仏教は諭しています。たしかに「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という「欲」があるからこそ、それが手に入らず、思うようにならないので悩みが生じます。

 「欲」は頭の中、心の中を駆け巡ります。無心であれば、頭の中、心の中で「欲」は生じません。無心でない時、何かを考え、「ああだ」「こうだ」と思いを巡らせていると、「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という「欲」が生じます。

 つまり、何かを考えていると「欲」が生じます。人間とはなかなか厄介なものです。そもそも、この「人間」が仏教用語です。

 「人間」に当たる原語(サンスクリット語)の「マヌシュヤ」は「考えるもの」ということを意味します。「マヌシュヤ」という名詞は「マン」という動詞から派生。そして、「マン」は「考える」という意味です。なるほど、「人間」は「考えるもの」。

 さらに、「マン」と聞くと英語の「man」を思い出します。サンスクリット語の「マン(考える)」が欧州に伝わり、「man(人間)」という英語に進化したように思えます。

 「人間」は「考えるもの」と聞くと、十七世紀のフランスの哲学者、自然科学者であったパスカルの名言が思い起こされます。曰く「人間は考える葦(あし)である」。

 もっと遡ると、古代ギリシャ(紀元前五世紀)のソフィスト(弁論家)であるプロタゴラスも曰く「人間は万物の尺度である」。

 「人間」は自分の頭で何かを「考える」ことによって、その「人間」にとっての尺度=判断基準や「欲」を生み出します。そして、その尺度や「欲」によって、物事の善悪や好き嫌いを決めてしまうことから、悩みや争いが生じます。人間の数だけ異なる尺度があります。

 自分の尺度や「欲」で物事を裁かず、「欲」に囚われない心穏やかで争いごとのない状態を目指すべきと諭したのが仏教です。

 「人間」が仏教用語であることを知り、「考える」から「人間」であり、「考える」から「欲」が生じ、「欲」があるから悩みが生じるという因果を知れば、人間関係の摩擦や争いごとは減ることでしょう。

 人間だけではありません。国内外において、皆がそういう気持ちで相手と向き合えば、争いごとが少ない世界になるでしょう。合掌。

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