耕平さんかわら版   198号(平成30年12

  

 

 皆さん、こんにちは。今年もいよいよ師走。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 今年はどんな一年でしたでしょうか。年末には一年を振り返り、新年から気持ちも新たに何かに取り組もうという覚悟を決める人も多いことでしょう。

   禁煙を決意する人は「こんりんざい、タバコは吸わない」、受験に向けて勉強に力を入れようと思う人は「こんりんざい、怠けない」等々、覚悟にもいろいろあります。

 さて、時々使ってしまう「こんりんざい」という言葉は「金輪際」と書きます。「金輪際」も「覚悟」も仏教用語です。

 まずは「金輪際」。インドの古い世界観では、世界の中心に「須弥山(しゅみせん)」と呼ばれる山が高くそびえていました。漢訳仏典では「妙高山」と表わされることもあります。

   「須弥山」の周囲には「四大州」と呼ばれる大陸があり、それを支えている土台のことを「金輪(こんりん)」と呼びます。その「金輪」の最も深い部分が「金輪際」。世界の果てを表します。転じて、物事の極みや極限状態を指すようになりました。

 次に「覚悟」。一般に「覚悟」と言えば、重大な決意や決心を意味します。一方、仏教の「覚悟」は、真理を覚(悟)る、真理に目覚めることを意味します。

 「涅槃経」という仏経典には、「仏とは覚と名づく。自ら覚悟し、また能く他を覚す」と説いています。「覚悟」を得た人を「仏」と称し、その教えに随うのが仏教徒です。

 時代劇などで、斬りかかる相手に「お覚悟」と叫ぶシーンがよくありますが、これは「もうこれまでと覚りなさい」という意味で使われています。「もうだめだ」ということを「覚りなさい」ということですね。

 人間は独り善がりな存在です。自分だけが正しいと思い、自分だけで何かを成し遂げられると過信し、「私には覚悟がある」「必ずできる覚悟がある」などと「覚悟」を乱発します。「覚悟」ができればそれは「仏」になるということ。人間はそんなに簡単に「覚悟」はできません。

 「無量寿経」という仏経典に「独り来り、独り去りて、ひとりとして随う者なけん」と書かれています。人間は一人ひとりが独立していますが、この世は独りでは生きていけないものであり、何かに生かされているのが人間という存在。「覚悟」「覚悟」と力むよりも、他者や見えざるものに感謝して、「おかげさま」の気持ちで生きることが大切です。

 和歌にも「おのが目の 力で見ると思うなよ 月の光で月を見るなり」とあります。自分の「覚悟」で何かができるのではなく、何かの「おかげさま」で自分が成り立っていることを「金輪際」忘れないこと。来年は心がけたいものです。

 日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですねぇ。それでは皆さん、良い年をお迎えください。

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