政治経済レポート:OKマガジン(Vol.396)2017.12.4

代表就任から1ヶ月。混乱収拾に向けて全力で頑張っていますが、なかなか大変です。代表質問や予算委員会もあり、とうとうメルマガ先月後半号の送信を断念。今号、次号と、気分転換にAIに関する情報をお伝えします。


1.第4世代コンピュータ

AIとは切っても切り離せないのがコンピュータとロボット。そもそもコンピュータがなければAIは誕生していません。そして、AIが人間の代わりを果たすことを最もイメージさせるのがロボットです。

コンピュータの起源はローマ時代。古代の計算機、計算器が徐々に発展して機械式になり、やがて電子化され、今日のコンピュータに進化しました。

古くは「アバカス」と呼ばれるローマ時代の算術器具である「ローマ算盤(そろばん)」。紀元前150年頃の古代ギリシャでは「アストラーベ」と呼ばれる計算機が製作され、「最古のアナログコンピュータ」とも言われています。

中世になると、スコットランドの数学者、物理学者のジョン・ネイピアが乗算(掛け算)と除算(割り算)のできる計算器「ネイピアの骨」を考案。1620年代には計算尺が発明され、乗算や除算が迅速に行えるようになりました。

17世紀のフランスの哲学者ブレーズ・パスカルは数学者、物理学者でもあり、「パスカライン」と呼ばれる計算機を作りました。

ドイツの哲学者、数学者であるゴットフリート・ライプニッツは「パスカライン」を改良し、「段付歯車機構」を用いた計算機を開発するとともに、2進法による計算を提唱。

チャールズ・ザビエ・トーマスが1820年頃に機械式計算機「アリスモメーター」を開発し、世界で初めて量産。

日本では、発明家・矢頭良一が自動算盤を開発し、1903年に特許取得。200台以上を政府や軍が購入しました。

20世紀入り後、機械式計算機の性能が向上し、やがて電動式のキャッシュレジスター、会計機等が開発され、それらを操作する人のことを「コンピュータ(計算手)」と呼ぶようになったことがコンピュータの語源のようです。

1930年代頃(第1次、第2次世界大戦の戦間期)からフリーデン計算機、マーチャント計算機、モンロー計算機等の量産機械式計算機が普及。

原爆製造のマンハッタン計画においては、物理学者リチャード・ファインマンの指揮下に大勢の女性数学者がコンピュータ(計算手)として動員され、原爆製造のための計算・解析に従事したそうです。

戦後、1961年には世界初の完全電子式卓上計算機「アニタ」が開発、販売されました。

この間、1880年代末、米国の発明家ハーマン・ホレリスが機械で読み取り可能なデータ記録方法を発明。当初は紙テープに記録しましたが、やがてパンチカードに発展。穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンが発明されました。

これらの発明は機械式計算機やその後の電子式計算機にも使用され、現代の情報処理技術やコンピュータの発展につながっていきました。

1911年、ホレリスの会社を含む4社が合併して「コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング社(CTR社)」が発足。1924年には「インターナショナル・ビジネス・マシン社」すなわち「IBM社」に社名変更しました。

第1世代に分類されるコンピュータは真空管を使用。1946年、米国ペンシルベニア大学でジョン・モークリーとジョン・エッカートが開発した「ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)」が世界初の電子式汎用コンピュータです。

1955年頃からコンピュータの素子が真空管からトランジスタに変わり、第2世代に移行。第2世代に属する「IBM1401」は1960年から64年までに10万台以上生産され、全世界のコンピュータ市場の3分の1を占めました。

1959年、テキサス・インスツルメントのジャック・ギルビーとフェアチャイルド・セミコンダクターのロバート・ノイズの2人が別々に集積回路を発明し、コンピュータは第3世代に移行。

1971年、インテルが世界初の商用マイクロプロセッサ「4004」を発売。マイクロプロセッサはコンピュータの演算機能を担う半導体チップのことであり、CPU(中央演算装置)とほぼ同義語。集積回路を多層的に活用した構造であり、マイクロプロセッサを使ったコンピュータは第4世代に分類されます。

その後のコンピュータの処理能力と記憶容量の向上は目覚ましいものの、その基礎となっている大規模集積回路(LSI)や超大規模集積回路(VLSI)の技術は基本的にマイクロプロセッサを継承し、現在のコンピュータも第4世代に属します。

日本では1982年から第5世代コンピュータの開発プロジェクトが行われましたが、この動きはAIを巡る攻防と関連しています。第3項(ダートマス会議)でお伝えします。

2.ロボット

「ロボット」という単語が初めて用いられたのは1920年。チェコスロバキアの小説家カレル・チャペックが発表した「R.U.R.(ロッサム万能ロボット商会)」という戯曲の中。各国で上演され、「ロボット」という単語が浸透しました。

チェコ語で賦役(強制労働)を意味する「robota(ロボッタ)」と、スロバキア語で労働者を意味する「robotnik(ロボトニーク)」から創られた造語です。

登場するロボットは金属製の機械ではなく、化学的合成物による肉体を持つ人間そっくりのロボット。現在のSFで言う「バイオノイド」です。

チャペックはロボットの着想には「ゴーレム伝説」が影響していると述べています。「ゴーレム」はユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形。ヘブライ語で「胎児」の意味です。

ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、土をこねて人形を作り、作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いのような存在。命令や扱いを誤ると狂暴化します。「命令に忠実に動く人造物」という点から、チャペックはゴーレムからロボットを着想しました。

紀元前4世紀、アルキタスは鳩型の空飛ぶ機械を製作したと言われています。同じく紀元前4世紀、中国の「列子」に人型の機械人形を作成した人物に関する記述、「韓非子」にも空飛ぶ鳥型人形が登場します。

11世紀、機械学者の蘇頌は人形が数時間ごとにチャイムを鳴らす大時計を作成。12世紀、機械工学者ジャザリーは飲み物を給仕したり、楽器を演奏する人形を製作。

1495年、レオナルド・ダヴィンチがヒューマノイドロボットの詳細な設計図のスケッチを作成しました。

1886年、ヴィリエ・ド・リラダンが小説「未来のイヴ」で「アンドロイド」という語を初めて使用。

日本でも12世紀、鎌倉時代の仏教説話集「選集抄」に人骨による人形に魂を宿して動かす記述が登場。これが日本におけるロボットの最初の記述と言う人もいます。

17世紀以降、からくり人形が興隆。1796年、細川半蔵が茶運人形などの構造を図解した「機巧図彙」(からくりずい、きこうずい)を著しました。

チャペックの作品は3年後の1923年に邦訳が出版され、翻訳者の宇賀伊津緒がロボットを「人造人間」と訳しました。直訳のロボットという単語が普及するのは戦後です。

以後、20世紀は、世界でロボットが実際に開発されていきます。1928年、初期のヒューマノイドロボット「Eric」が製作され、同年、日本でも生物学者、西村真琴が文字を書く人型ロボット「學天則」(がくてんそく)を製作。日本初のロボットと認識されている。

1950年、SF作家のアイザック・アシモフが著作「われはロボット」の中でロボット工学3原則を発表。具体的には「人間を傷つけてはならない、傷つくのを看過してはならない」「第1原則に反しない限り、人間の命令に従わなくてはならない」「第1、第2原則に反しない限り、自分の身を守らなくてはならない」。因みに、同年、日本では手塚治虫が漫画「鉄腕アトム」の執筆を開始しました。

1961年、米国起業家ジョージ・デボルが世界初の産業用ロボット「ユニメート」を発売。ゼネラルモーターズの工場に納入され、実用に供されました。1969年、川崎重工が「ユニメート」のライセンス生産を開始。

1970年、大阪万博が開催され、ロボットを中心にしたパビリオン「フジパンロボット館」が人気を博しました。僕の世代はよく覚えています。

1970年代末以降、日本の有力企業が産業用ロボット分野に進出。1980年代、自動車等の生産ラインに溶接や部品組み付け等の作業を行う産業用ロボットが本格導入され始めました。

1996年、完全二足歩行を行う人型ロボット「P2」を本田技研が発表。1999年、ソニーが犬型ロボット「AIBO」を発売。家庭用エンターテイメントロボット市場が誕生しました。

ロボットとの関係で「人工生命」についても認識しておく必要があります。「人工生命」は1986年に米国の生物学者クリストファー・ラングトンによって命名されました。

「生命とは何か」という哲学的命題を追求するため、「わからなければ作ってみよう」という発想から研究が始まりました。「人工生命」には、コンピュータ上に形成されるソフトウェア、細胞機構に類似した機構を採用したウェットウェア、機械類で形成されたハードウェア(ロボット)の3類型があります。

「人工生命」は「AL(Artificial Life)」「Alife」と呼ばれ、上述の3類型は各々「ソフトALife」「ウェットALife」「ハードALife」(ロボット)と呼ばれます。

「ハードAlife」には「メカニマル」という分野もあります。「メカニマル」は動物の動作を模倣したもので「本物ソックリの動作をする機械」です。

3.ダートマス会議

コンピュータとロボット(さらにはAL<人工生命>)にAI(人工知能)が加わると、まさしく「アンドロイド」です。

AI研究は、機械計算の進化、コンピュータ開発と並行し、哲学・数学・論理学・心理学等の分野で論じられていた「人間のように知的活動を行う機械」を作る試みです。

1945年、米国の科学者ヴァニーヴァー・ブッシュは著書「As We May Think(人間が考えるように)」の中で、将来、コンピュータが人間の活動を補助することを予見。翌1946年、前述のとおり、ペンシルベニア大学のジョン・エッカートとジョン・モークリーが世界最初のコンピュータ「ENIAC」を開発。

1947年、英国の科学者アラン・チューリングが数学学会で人工知能の概念を提唱。1950年、チューリングは人工知能の知的活動に関する「チューリングテスト」を考案。詳しくはメルマガ次号でご紹介しますが、要するにAIか人間かを判断するテストです。

1956年夏、関係分野の研究者が米国ニューハンプシャー州ハノーバーのダートマス大学に集合。ジョン・マッカーシー等が発起人となって「ダートマス会議」を開催。マッカーシーが初めて「Artificial Intelligence(人工知能)」という単語を使いました。

ダートマス会議以後、1960年代はAI研究が進展。この時期のAIはインプットされた論理に基づいて動いていたので、若干否定的な意味も込めて「Good Old Fashoned AI(古き良き人工知能)」と呼ばれています。

1958年、マッカーシーが作成した「Advice Taker」というAIは、動作中に新しい問題に対して再プログラムすることなく対応する本格的AIでした。

1960年代前半、チェッカーというゲームを行うAIが作成され、世界チャンピオンに挑戦するまでになりました。

1963年、「エキスパートシステムの父」と呼ばれるエドワード・ファインゲンバウム等が人工知能全般に関する著書「Computers and Thought」を出版。日本語には未翻訳です。

因みに「エキスパートシステム」はAI研究から生まれたコンピュータシステムで、人間の専門家(エキスパート)の意思決定能力を代替するものです。

以後、1960年代から1970年代はAIの言語理解能力が進化。1965年、米国の科学者ジョセフ・ワイゼンバウムが英語で会話ができる「ELIZA」を開発し、医療情報をインプット。精神科医を模した「エキスパートシステム」が話題を集めました。

順調に成果を上げていたAI研究ですが、1969年に最大の難問「フレーム問題」を上述のマッカーシーとP.J.ヘイズが指摘。これも次回メルマガで詳しくお伝えしますが、簡単に言えば、何かをしようとしているAIがどこまで幅広い情報に目を向けて総合判断するのかという問題です。

1974年、「MYCIN(マイシン)」という医療診断システムが開発され、実用化。最初の実用「エキスパートシステム」と呼ばれ、スタンフォード大学医学部の調査では、正解率65%に達したそうです。

1979年、スタンフォード大学は「Stanford Cart」を開発。世界初のコンピュータ制御自律走行車で、椅子のたくさん置かれた部屋の走行や大学内の周回に成功。

1979年と言えば、エズラ・ヴォ―ゲル博士の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになった年。日本経済の全盛期です。

日本では通産省が「第5世代コンピュータ」の開発プロジェクトを立ち上げ。当時主流のIBM等の大型汎用コンピュータは「第4世代」。その先を行く次世代コンピュータ開発プロジェクトであり、人間のように思考するコンピュータを実現するという壮大な目標が掲げられました。

AIに関心を高めていた先進各国は、「第5世代コンピュータ」で日本がAI分野で優位に立つことを危惧し、各国でAI研究への補助や投資が活発化。

プロジェクト期間中の1986年には日本人工知能学会が発足。しかし1992年、プロジェクトはあまり成果をあげることなく終了。以後、日本ではAI研究が停滞期に入りました。

「第5世代コンピュータ」プロジェクトも含め、日本での20世紀のAI研究は、記号処理や人間の論理的思考を再現する論理的アプローチが主流。一方、21世紀の先端AI研究は、確率・統計論的アプローチに加え、人間の直感的思考や総合的判断力を再現する感覚的アプローチを目指しています。

現在の状況は、メルマガ377号(2017年2月10日号)や387号(同7月4日号)でもお伝えしていますので、ご興味があればホームページのバックナンバーからご覧ください。

次号では「チューリングテスト」や「フレーム問題」を考えてみたいと思います。

(了)

戻る