政治経済レポート:OKマガジン(Vol.405)2018.9.17

台風、地震等による相次ぐ自然災害で犠牲となった皆様のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた皆様に心からお見舞いを申し上げます。一刻も早く国会を開催し、立法措置で対応すべきこと、政府の対応で足らざる点等を、議論すべきです。臨時国会の早期開会を望みますが、首相は10月下旬開会、会期も1ヶ月足らずを想定しているようです。


1.「韜光養晦」再論

日本が金融危機に陥る前の1995年。バブル崩壊による不良債権問題がクローズアップされつつあったものの、各界リーダーは依然として「アジアで唯一の先進国」「21世紀は日本の時代」という潜在的幻想を抱いていた時期です。

米誌「フォーチュン」による世界企業番付「フォーチュン・グローバル500」が初めて発表されたのも1995年。私はまだ日銀に勤務していましたが、興味深く読んだ記憶があります。

改めて調べてみると、初回の国別ランキング入り企業数は米国が151社で第1位、日本が149社で第2位。各界リーダーが潜在的幻想を抱くのも無理からぬことです。

その時の中国は3社。当時の中国の事実上のトップであった鄧小平が「南巡講話」で「先富論」「韜光養晦(とうこうようかい)」を説いた直後の時期です。

「南巡講話」とは、比較的豊かであった上海等の南部地域を回って講話したことを指します。「先富論」は「先に富める者から豊かになって国を牽引しろ」と説いた内容を指します。

「韜光養晦(とうこうようかい)」は、能力を隠しつつ、力を蓄えるという意味。日本の「能ある鷹は爪を隠す」という格言に近い内容です。

それから22年、昨年(2017年)の「フォーチュン・グローバル500」の国別ランキング入り企業数をみると、米国132社に対して中国105社(香港・台湾の10社を入れると115社)、日本は51社。この間の日米中の経済構造の激変が顕著に表れています。

メルマガ前号で「中国製造2025」を取り上げたところ、若い読者から、中国の発展に関するこれまでの経緯を教えてほしいという熱心なご要望をいただきました。過去のメルマガでも何度か取り上げていますが、ご要望にお応えして再述します。

メルマガも既に405号。折に触れて中国の話題も取り上げてきましたが、改めて、国際政治や中国史の歴史的転換局面でメルマガを書き続けていることを痛感します。

東西冷戦終結(ベルリンの壁崩壊は1989年11月10日、ソ連崩壊は1991年12月25日)後、時の最高実力者であった鄧小平が中国のその後の方向性を国民に示しました。

「先冨論」という共産主義と矛盾する方針を掲げ、「南巡講和」を行った鄧小平。1992年1月から2月にかけて、鄧小平は武漢、深セン、珠海、上海等の南部各都市を巡回。各地の演説の中で「先冨論」に基づく「改革開放路線」を宣言。

「先冨論」と並んで鄧小平が示したもうひとつの重要な言葉「韜光養晦」。「光」は能力や才能のことを指し、それを「韜(つつ)み」「養(やしな)い」「晦(かく)す」の含意。出典は唐代の歴史書。野心や才能や隠し、周囲を油断させて、力を蓄えるという処世訓。

鄧小平は激動の国際情勢の中で、中国は「韜光養晦」、つまり「当面は力を蓄える」という方針を徹底したと解されています。

その後の国家主席である江沢民(在任1993年から2003年)期、及び胡錦濤(同2003年から2013年)期前半は「韜光養晦」の方針を堅守。

この間、2001年、共産主義国家でありながらWTO(世界貿易機構)に加盟。以来、着実に経済力を高め、2008年の世界金融危機(リーマンショック)の際は欧米諸国に先駆けて難局を脱出。2010年、GDP(国内総生産)は日本を抜き、世界2位の経済大国に浮上。

そして誕生した習近平体制も既に5年。自信をつけた中国は、経済力、軍事力の双方で、「韜光養晦」の方針を転換したように思えます。

転換の傾向は胡錦濤期の終盤に徐々に顕現化していました。2009年7月の駐外使節会議(5年に1回開催される駐在大使会議)の演説で、胡錦濤は注目すべき発言を行っています。

鄧小平が示した「韜光養晦」には後半の四文字があります。すなわち「韜光養晦、有所作為」。胡錦濤は鄧小平の遺訓を「堅持韜光養晦、積極有所作為」と修正して表現。

後段の「有所作為」がなかなか難解。「やることを淡々とやる」とも解釈できるし、「やるべき時にはやる」とも訳せるそうです。中国語に詳しい人に聞いても、断定できません。

しかし、鄧小平の「南巡講話」に関する記録を当たると「やるべき時はやれ、時が来たら成果を出せ」と付言していたという説もあります。

それが事実であるとすれば、「韜光養晦、有所作為」を我流に解釈すれば「力を蓄え、時期を待て」という含意でしょうか。

そういう前提で考えると、胡錦濤の「堅持韜光養晦、積極有所作為」は「力を蓄える方針は堅持しつつも、時節到来、積極的に行動する」。

2.「一帯一路」「A2AZ」再論

折しも、世界2位の経済大国の座が目前に迫った時期。米国も中国を意識し、2007年からTTIP(大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定)、2009年からTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)を提唱。大西洋、太平洋で、中国抜きの経済圏構築を画策。

対する中国。RCEP(東アジア地域包括的経済連携)等、別の多国間経済連携で対抗しようとしていましたが、2014年、習近平が「一帯一路」構想を発表。中国を中心とした包括的、世界的な経済圏構築で応戦。

一方、軍事面。「積極有所作為」の動きも顕著。2007年には米中海軍首脳会議において、中国がハワイを境に太平洋を分割統治することを提案。その事実を米太平洋軍キーティング司令官(当時)が翌年の米議会公聴会で証言。

以来、第1列島線(日本列島から沖縄、台湾、フィリピンを結ぶライン)、第2列島線(伊豆諸島、小笠原諸島、グアムを結ぶライン)を意識した軍事戦略「A2AD」を展開。「A2」は「Anti Access」の略で「接近阻止」、「AD」は「Area Denial」の略で「領域拒否」を意味します。

すなわち、第1に「第1列島線」の大陸側に米軍を侵入させない「領域拒否」。第2に「第2列島線」で米軍を食い止める「接近阻止」。

その中心舞台は、東シナ海、尖閣諸島、及び宮古島と沖縄本島を挟む海域、さらには南シナ海。中国軍はこの海域でのプレゼンス(存在感)を着実かつ計画的に高めています。

こうした中、冷静な国家運営を行うためには、何ごとにつけ、歴史の理解と深層の洞察が不可欠。中国との関係を考える際にも、中国近代史を知ることが必要です。

今を遡ること175年。中国近代史はアヘン戦争(1840年)が端緒。同戦争で清朝が英国に敗戦。香港が割譲され、以後、西洋列強による半植民地化が進みます。

1856年の対英仏アロー戦争、1884年の清仏戦争、1894年の日清戦争と、清朝は敗戦続き。ロシアも南下して清朝を圧迫。清朝は瓦解していきます。

窮した清朝は「中体西用」を掲げて近代化を企図。日清戦争後は康有為らの進歩派官僚が「戊戌の変法」で改革を目指したものの、西太后らの抵抗によって挫折。

1900年、「扶清滅洋」を掲げる義和団事件が勃発。西太后は義和団を支持し、清朝は列強8ヵ国に宣戦布告したものの、あえなく敗北(北清事変)。

清朝弱体化が進む中、「滅満興漢」を掲げる漢族革命、孫文による辛亥革命が勃発。1912年、ラストエンペラー(宣統帝)が退位し、清朝は滅亡。中華民国が成立しました。

以後、欧州列強と日本による局地的支配と軍閥の群雄割拠が続き、1929年にはソビエト(1922年建国)赤軍との中ソ紛争にも敗北。

1931年、満洲事変勃発。翌年、日本の支援を受け、宣統帝が満州国を建国。これを契機に、反目していた中国国民党と中国共産党が連携(第二次国共合作)。日中戦争に突入。

1945年、日本が第2次大戦で敗北。中華民国は連合国(戦勝国)の一員として香港・マカオ・旅順・大連などを除く中国全土を掌握。

しかし、米国を後ろ盾とする中華民国国軍(国民党)は、ソビエトが支援する毛沢東率いる人民解放軍(共産党)との内戦に敗北。1949年、共産党独裁の中華人民共和国が誕生。

以後の現代中国は、毛沢東時代(1978年まで)、鄧小平時代(1997年まで)、それ以後の3期間に大別できます。

毛沢東時代は共産党による世界革命路線を推進。ウイグル、チベットを次々と併合し、1951年にはソ連から旅順港・大連港・南満州鉄道を奪回。

1952年には朝鮮戦争に介入。米韓軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止。1962年にはチベットからインドに侵攻(中印戦争)。

1966年、路線対立を背景に、官僚化した共産党の打倒を呼びかけた毛沢東に紅衛兵が呼応。文化大革命が勃発。反革命派と目された多くの人々が弾圧されました。

1969年、中ソ国境紛争が勃発。1972年、ニクソン大統領訪中を契機に米中関係が改善するとともに、日中国交正常化。1974年には南シナ海に侵攻し、西沙諸島を占領。

1976年の毛沢東の死去を契機に文革が終結。1978年12月、過去の失脚から復活した鄧小平が実権を掌握しました。

鄧小平は共産党独裁体制を堅持する一方、経済開放政策を断行。「改革開放」によって中国の経済発展と近代化を目指します。

1989年、民主化要求運動を弾圧する天安門事件が勃発。鄧小平は天安門広場に集まった学生らを殺傷し、「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」姿勢を顕示しました。

1990年代、鄧小平は経済発展の先行する南部・臨海部を巡り、先に富める者から豊かになって国を牽引することを推奨する「先富論」を展開。すなわち「南巡講和」。

1997年、鄧小平が死去。以後の中国は、「世界の工場」の地位を日本から奪取する高度成長を実現。そして、現在に至っています。

3.プラットフォーマー

「フォーチュン・グローバル500」にランクインしている中国企業の傾向を整理すると、いくつかの特徴が観察可能です。

第1に、依然として国有企業が主力であるものの、民間企業が急増。2017年の105社のうち、国有企業は81社。民間企業は2008年に聯想集団(レノボ)が初登場し、2017年では24社に増えています。

中国の民間企業は、国有企業が民営化されたものと、当初から民間資本が設立したものの2つに大別されますが、ランクインしている民間企業の大半は後者です。

第2に、企業(本社)所在地は、北京(56社)、上海(8社)、深セン(6社)がベストスリー。国有企業は北京に集中。一方、民間企業は深セン等の都市に分散しています。

国有企業81社のうち、52社が北京。その中の48社は国務院国有資産監督管理委員会等(つまり政府)が管轄。一方、民間企業24社は、深セン(5社)、北京(4社)、杭州、南京、佛山(各2社)等、複数の都市に分散しています。

民間企業が集積する深センは、1970年代までは香港に隣接する小さな漁村。1980年、対外開放窓口と改革の実験地として、市域の一部が最初の経済特区に指定され、付与された優遇策を目当てに香港企業が工場等を深センに移設。私の世代には印象的な出来事でした。

発展に伴って深センの賃金や地価が上昇。工場は東莞等の周辺地域に移動しましたが、その後は金融・物流等のサービス産業やIT産業の企業が急成長。若年世代の外来人口が増加し、イノベーション先進地域に変わっていきました。

深センを含む「珠江デルタ」は今や世界有数の産業集積地。電子機器・自動車等のサプライチェーンが勢揃いし、深センは「ハードウェアのシリコンバレー」と呼ばれています。

華為(スマホ)、テンセント(インターネット・サービス)、ZTE(通信設備)、DJI(ドローン)等、日本でもよく知られる新興企業が立地しています。

第3に、国有企業は産業の川上(原材料)・川中(資本財・中間財)、民間企業は川下(消費財・サービス)という棲み分けが成立。川上・川中分野は国有企業が独占し、民間企業にとって参入障壁が高いことを意味しています。

国有企業と民間企業が産業間で棲み分けしている「垂直構造」は、中国の産業・経済にとっても、日米欧の競争企業の対中国戦略にとっても、非常に重要な特徴です。

「消費財・サービス」分野において、7社の中国民間企業が「フォーチュン・グローバル500」にランクインしていますが、その中に京東(JDドットコム)・アリババ・テンセント等の3社が含まれています。

「フォーチュン・グローバル500」にランクインした同業(インターネット及びリテール関連)企業は6社。中国はその半分を占有。因みに、中国以外の3社は米国のアマゾン、グーグル、フェイスブック。

他社や他産業に事業基盤となる製品やサービスを提供して急成長している企業群を「プラットフォーマー」と言いますが、その代表格が「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)」。中国の3社は「プラットフォーマー」分野で米国を脅かしており、日本企業は蚊帳の外。

今後も中国の経済的プレゼンスは高まり、GDP規模(2016年の世界シェアトップは米国の60.4%)で世界一になる日も予想より早くなるかもしれません。中国にどう向き合うのか、日本の戦略が問われています。

(了)

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