政治経済レポート:OKマガジン(Vol.411)2018.12.21

辺野古の海への土砂投入が強行開始されました。米国を基軸とした安全保障体制を維持・強化していくのであれば、良好な日米関係、対等な日米関係を構築することが肝要です。民意を軽視した日本政府による蛮行は、結果的に米国への印象を悪化させ、日本の安全保障にとってはプラスになりません。日米地位協定の改定を目指します。


1. パトリオット・エクスプレス

日米地位協定は日米安保条約第6条に基づいて1960年(昭和35年)に締結。1952年(昭和27年)に旧日米安全保障条約3条に基づいて締結された日米行政協定を継承しています。

日米地位協定の具体的内容や運用については、月2回開催される実務者会議である日米合同委員会で決められています。

日米地位協定は国際法的には条約に該当します。日本で犯罪を行った米兵や軍属に対して日本の警察権や裁判権を行使できない根拠となっており、明らかな不平等条約。米国は同盟国ではありますが、見直しが必要です。

駐留米軍の人数は現在54,529人(うち沖縄28,265人<51.8%>)。在日米軍基地の面積は、263,192千平方メートル(うち沖縄184,961千平方メートル<70.3%>)。

いずれも、平成25年12月末(つまり、今から5年前)のデータですが、これが最新。防衛省によれば、平成26年以降、米側から情報提供を拒否されているそうです。信じられませんが、防衛省はそう述べています。

しかし、そもそも人数は、日米地位協定によって軍人・軍属は外国人登録義務がないため、正確に把握できません。

日本への出入国に「パトリオット・エクスプレス(在日米軍基地を経由する米空軍チャーター便)」や軍港を使用すると、出入国管理及び難民認定法の対象外。

軍人IDカードを保持していればパスポート不要。犯罪歴があっても入国可能。基地以外に居住している場合は把握不能。その人数は、在留外国人統計に含まれていません。

過去、駐留米軍及び関係者による事件・事故の度に、日米地位協定の見直しが取り沙汰されてきました。特に沖縄で頻発していますが、本土でも起きています。

古くは1950年代、日米合同委員会が飲酒運転事故を「公務中」として日本の警察権行使を認めなかったり、日本の警察権・裁判権行使を重大事案に限定し、問題化しました。

1974年の「伊江島住民狙撃事件」では、「公務外」であった容疑者に事後的に公務証明を発給し、日本の裁判権を強引に米側に移管。

1975年、牧港補給基地で環境基準の8000倍の六価クロムが検出された際には、在日米軍は事実関係を認めず、基地労働者(日本人)の健康被害等の調査にも協力せず。

1995年、米海兵隊兵士3名が12歳の女子小学生を集団強姦した沖縄米兵少女暴行事件。実行犯3人は日本側に引き渡されず。

2002年、窃盗容疑で逮捕された米兵が「急使」(米軍クーリエ)の身分証明書を保持していたため、釈放。

同年、在日オーストラリア人女性が横須賀で空母「キティホーク」乗組員に強姦され、容疑者は事件発覚前に海軍当局によって名誉除隊。早々に米国に帰国。

2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落。米軍が現場を封鎖し、日本は警察権を行使できず。米軍が設定した事故現場の規制線内は米軍基地の扱いという拡大解釈。

2008年、万引きで現行犯逮捕された海兵隊員の家族を、米軍が身柄を拘束し基地内に連行し、その後解放。

2013年、AP通信が情報公開請求によって、2005年からの性犯罪処分者中、開示された244人の3分の2は刑事罰を受けず、降格等の人事処分のみだったことが判明。

沖縄県では、1972年(昭和47年)の本土復帰から2017年(平成29年)末までに米軍人等による刑法犯は5,967件。実に様々なことが起きています。

同期間の航空機関連事故は738件。日米地位協定に基づく航空特例法により、米軍機は航空法の最低安全高度規制(第81条)、や迷惑飛行規制(第85条)の対象外。オスプレイの墜落・部品落下、CH-53Eの不時着・炎上・部品落下等の事故が頻発。普天間第二小学校や緑ヶ丘保育園への部品落下は記憶に新しいところです。

日米地位協定は締結されて以来、一度も改定されていません。日本政府が米側に見直しを求める気配が全くない中、2000年(平成12年)に沖縄県が11項目の見直しを日米両政府に要請。2017年(平成29年)には、同要請以降の状況を踏まえ、新たな見直し項目を追加して再要請。沖縄県の孤軍奮闘が続いています。

事件・事故以外の問題もあります。米側車両は「軍務」証明があれば、有料道路通行料等は日本政府が負担。この制度が濫用され、米関係者の私用車や団体旅行にも使用。自動車取得時の車庫証明を「保管場所は基地内」と強弁して証明を提出しない事案など、様々なことが起きています。基地内日本人職員には、労働基準法関連規定も適用されていません。

こうしたことは全て日米地位協定に由来し、上述のとおり、その具体的内容は日米合同委員会が所管。同委員会には日本の政治家は参加せず、日本側代表は外務省北米局長、米側代表は在日米軍司令部副司令官。

月2回、協議を行っており、開催場所は1回は「ニュー山王ホテル」、もう1回は外務省が設定した場所です。

2.ニュー山王ホテルと赤坂プレスセンター

「ニュー山王ホテル」と聞いても、分からない人が大半だと思います。東京広尾にある「 ニュー山王米軍センター」という米軍施設のことです。

住所は港区南麻布4丁目12番20号。米軍関係者の宿泊施設、保養所、社交場であり、原則として米軍関係者以外立ち入り禁止。施設内の使用言語は英語、通貨は米ドルです。

第2次大戦終結後の1946年(昭和21年)、米軍は旧日本陸軍の山王ホテル士官宿舎を接収。1983年(昭和58年)10月、同地は旧山王ホテルのオーナーに返還され、代替施設として日本政府から米軍に提供されたのが現在の「ニュー山王ホテル」の土地・建物です。

1981年着工、1983年竣工。閣議決定と日米間協定締結を経て、同年7月16日に米軍に引き渡されました。2004年(平成16年)から3年間かけて内外装の大改修工事を実施。日本政府が負担した工事費は1千万ドル以上と言われています。

東京都区内にもうひとつ「赤坂プレスセンター」と呼ばれるヘリポートを持つ米軍施設があります。港区六本木7丁目、東京のど真ん中です。

面積3万1670平方メートル。東京都内に残る8ヶ所の米軍基地のひとつで、都区内唯一の米軍基地。一等地であるため、東京都は全面返還を求めています。

歴史を振り返ると、1889年(明治22年)に旧陸軍歩兵第3連隊(麻布3連隊)が駐屯開始。1936年(昭和11年)2月26日、2・26事件発生。同連隊から反乱部隊の過半数に当たる900名以上の将兵が参加。1945年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されました。

米軍内ではハーディー・バラックス(兵舎)とも呼ばれています。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争で戦死した「エルマー・ハーディー伍長」に由来します。「麻布米軍ヘリ基地」と呼ばれることもあります。

横田基地(東京都福生市)や厚木基地(神奈川県綾瀬市)との間に1日数便の定期ヘリコプターを運航。米国大使館や「ニュー山王ホテル」の近くであることから、米国の政府・軍関係者の移動や物流の拠点となっています。

1993年、横田基地から「赤坂プレスセンター」に向かっていたヘリコプターが杉並区内の中学校校庭に不時着。騒音や事故への不安から、東京都だけでなく、港区及び港区議会もヘリポート撤去を日本政府に要請中。米軍基地問題は沖縄県だけの問題ではありません。

ヘリポート撤去要請に対して、防衛省は「在日米軍にとって重要な施設であり、返還は困難」と回答しています。

1990年(平成2年)、ヘリポート地下に環状3号線の六本木トンネルを通すこととなり、工事期間中、ヘリポートの使用を停止。その間、東京都は代替地として青山公園の一部を提供し、そこにヘリポートを移設。工事終了後に代替地は返還される予定でした。

ところが、在日米軍は代替ヘリポートの方が周囲に高層建築物が少なく、安全運航に適しているとして、1993年(平成5年)の工事終了後も占有を続け、返還に応じず。また工事終了後に再び使用できるようになった旧ヘリポート部分も使用継続。結果的にヘリポートは大幅に拡張。日本政府が不当・不法占拠として抗議した形跡はありません。

1996年(平成7年)、地域住民は日本政府が返還請求をしないことに対して「違法性確認」を求める訴訟を起こしましたが、1998年(平成10年)、東京地裁は訴えを却下しました。

前項で示したとおり、米軍機には航空法等の規制は及びません。「赤坂プレスセンター」を使用するヘリコプターは大型軍用機で騒音も大きく、低空で飛行することから、今も東京都、港区、周辺住民から撤去要請が出続けています。

現在、敷地内には、ヘリポート、将校宿泊施設、軍機関紙「星条旗新聞」オフィス、陸軍国際技術センター、空軍アジア宇宙産業開発事務所、海軍グローバルアジア研究所等があります。

南東隅にある6階建て宿泊施設が本来の「ハーディー・バラックス」。基地運営経費は日本の思いやり予算で賄われているため、1泊約20ドルというお値打ち価格と聞いています。

3.ノルマントン号事件

今年3月、沖縄県は独自に行った「地位協定」に関する国際比較調査結果を公表。沖縄県の努力に敬意を表します。調査対象国として米軍駐留に関して日本と似た環境にあるドイツとイタリアを選定。調査結果の概要は以下のとおりです。

日本の「地位協定」に相当するのはドイツの「ボン補足協定」(1959年締結)、イタリアの「基地施設使用協定(BIA)」(1954年締結)。

「ボン補足協定」は1971年、1981年、1993年の3度改定。1993年は大規模改定でした。「BIA」は1995年改定。要するに独伊は改定実績がありますが、日本はなし。調査の結果、日独伊の間の大きな違いが明らかになりました。

第1に、駐留米軍に対して日本は国内法不適用が原則。一方、独伊は適用が原則。外務省は「適用されないのが国際法上の原則」と説明していますが、そもそもこの国際法解釈が問題です。

第2に、日本では駐留米軍基地・区域内への立入り権が明記されていません。一方、独伊は立入り権を明記。とくにイタリアでは、米軍基地はイタリア軍司令部管理下。イタリア軍司令官は米軍基地に自由に立ち入ることができます。

第3に、日本では駐留米軍の訓練・演習を規制する権限がなく、訓練・演習情報が事前通告されることもありません。一方、独伊では規制権限があり、事前通告及び調整・承認権限も明記されています。

なお、日本は、1980年代まで駐留米軍への提供施設・区域外での演習は不可との立場を取っていましたが、1980年代末頃から実弾射撃等を伴わない訓練や飛行であれば提供施設・区域外でも可との立場に転換。不可思議です。

第4に、日本では駐留米軍に対して、事件・事故の捜索、差押え又は検証を行う権利を行使しないことに合意。一方、独伊では当該権利を有することを明記。航空機事故等への対応でも、事故現場の管理は日本では米軍主導、独伊はその逆です。

第5に、日本では米軍との協議に基地周辺自治体等は不参加。一方、独伊では自治体が参加し、訓練場所・飛行ルート等の自治体からの変更要望も聞き入れられているようです。

要するに、独伊は駐留米軍をコントロールしているのに対し、日本では完全に受け身。国内法が適用されず、「不平等条約」状態が続いています。

歴史的には1842年、アヘン戦争後に英国が清と締結した南京条約が近代的な意味での「不平等条約」の始まり。ポイントは、外国の領事裁判権(治外法権)を認めていること、関税自主権を放棄していること、片務的な最恵国待遇を認めていることの3点です。

日本も安政の5ヶ国条約(米英仏蘭露との修好通商条約)でほぼ同様の不平等な内容に同意。とくに領事裁判権と関税自主権放棄は、その後の日本の重い足枷となりました。

明治時代に入ると、今度は日本が朝鮮、清に対して不平等条約締結を要求。朝鮮で最初の不平等条約は西洋とではなく、日本と結んだ日朝修好条規でした。

日本が不平等条約見直しを強く意識する契機になったのは1886年のノルマントン号事件。同号が紀伊半島東沖合に座礁した際、船長ドレークほか26人の外国人乗船者は全員救命ボートで脱出。日本人乗船者25人が全員死亡した事件です。

不審に思った初代外相井上馨は調査を試みるものの、英国の圧力で進展せず。領事裁判権に基づいて英国管轄下で裁判が行われ、「助けようとしたが、日本人は誰も英語を理解できなかったために仕方なかった」というドレーク船長の陳述を認め、無罪。

この判決に世論は反発。再審が行われドレーク船長は有罪になったものの、禁固3ヶ月の軽い刑。政府は依然不満であったものの、日英関係に配慮して静観しました。

日本は欧米諸国に再交渉するため、アジア諸国以外と平等条約を締結して前例を作る戦略に転換。1888年、メキシコと平等な日墨修好通商条約を締結。こうした前例を積み上げ、法権を徐々に回復。ノルマントン号事件から8年後の1894年、日英通商航海条約が結ばれ、領事裁判権が撤廃されました。

関税自主権が回復したのは日露戦争後の1907年、ロシアと締結した日露新通商航海条約。これを契機に欧米諸国と平等条約を順次再締結。不平等条約締結の53年後、1911年(明治44年)、関税自主権の完全回復が実現しました。

旧日米行政協定締結から66年、現在の日米地位協定締結から58年。明治政府の先人達の努力に思いを致さなくてはなりません。日米地位協定の改定を目指します。

(了)

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