弘法さんかわら版   創刊号(平成14年7月)

 

 

 

「弘法さん」の縁日って、いつから始まったのかな?

 

弘法さんにようこそでも、皆さん、どうして弘法さんって言うかご存知ですか?「そりゃあ、あんた、弘法さんがおるんでしょ、日泰寺の中に」と思われると思いますが、おばあちゃん、それは違うんですよ。弘法さんの像は日泰寺参道の周辺にたくさん祀(まつ)られていますが、日泰寺の中に祀られているのはお釈迦さまです。

1898年(明治31年)、インドのピプラーワーというところで発見されたお釈迦さまの骨(仏舎利=ぶっしゃり)を、タイ王室が仏教国である日本に分けてくれることになりました。そこで、日本の仏教各宗派が相談をして、お釈迦さまの骨を祀るお寺を新しく建てることとなり、選ばれた場所がここ旧田代町です。お釈迦さまを表す「覚王」という名前を山号としました。そして、日本とタイ(泰)の友好の証(あかし)として寺院の名前を日泰寺としました。覚王山日泰寺の誕生です。1904年、明治37年のことでした。

さて、ではなぜ弘法さんが祀られるようになったのでしょうか。毎月21日に縁日が開かれるようになったのでしょうか。実はよく分からないんです。一説によると、明治時代の終わりごろ、日本全国で弘法さんブームが起きていたため、参道の賑(にぎ)わいのために弘法さんの命日に縁日が開かれるようになったとも言います。弘法さんが開かれるようになった理由、ご存知の方がいたら教えてください。

ところで、弘法さんと言えば、四国巡礼、八十八寺院のお遍路さんが有名です。1909年、明治42年には、数人の発起人の努力で、日泰寺参道周辺には弘法さんが八十八ヶ所に祀られるようになりました。覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場の誕生です。

 

「歳弘法(としこうぼう)」の「おもかるさん」

 

参道のまん中あたりの東側に、「歳弘法」という弘法さんが祀られているお堂があります。弘法さん(弘法大師空海)の1歳から高野山に御入場された(=お亡くなりになった)62歳までの像が祀られています。自分の歳、あるいはお願いをしたい人の歳の弘法さんの像にお参りをすると、御利益(ごりやく)があるそうです。

その入口の小さなお堂には、「おもかるさん(重軽さん)」という「弥勒(みろく)石」が置いてあります。お参りする前と後に石を持ち上げてみて、お参り後に持った時の方が軽く感じられるようなら、願いごとがかなうそうです。試してみませんか?

 

「弘法さん:かわら版」、(時間つぶしの・・)お役に立てば幸いです!!

 

さて、「弘法さん:かわら版」は今回が創刊号です。毎月21日の弘法さんの縁日の日に、弘法さん八十八ヶ所霊場や日泰寺にまつわる話、覚王山周辺の話題を皆さんにお伝えしたいと思います。不思議な話、しらない話がいっぱいありそうです。「あんたぁ、こんな話しっとる?」「おみゃあ、こないだ書いてあった話、ちがうがや」などなど、ドシドシと編集部にご連絡ください。お待ちしております。

編集部の場所は、参道出口の正面、広小路通り沿いの覚王山プラザ2Fの参議院議員・大塚耕平事務所内です。では、また来月、お会いしましょう!

 

 

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弘法さんかわら版   2号(平成14年8月)

 

 

「覚王山祭」ってご存知ですか?

 

皆さん、こんにちは。今月も「弘法さん」の日がやってきました。先月の「弘法さん」と今月の「弘法さん」の合間に、ここ日泰寺の参道では覚王山・夏祭が開かれました(7月27日、28日)。「覚王山祭」は1998年から始まり、今年で5年目です。春、夏、秋と3回開かれます。「弘法さん」の日は昔ながらの風情のある出店が皆さんをお迎えしていますが、「覚王山祭」の日はエスニック風、レトロ風のお店が並びます。「へ〜、知らなかった・・」という皆さん、「弘法さん」だけでなく、「覚王山祭」にも是非お出かけください。覚王山をますます気に入って頂けることと思います。秋には「覚王山・秋祭を予定してます。ぜひ、お越しください。

 

「弘法さん」のついでに、ちょっと足を延ばしてみませんか!

 

さて、今回の「弘法さんかわら版」は、皆さんに鉈薬師(なたやくし)をご紹介します。鉈薬師は、日泰寺の北西側にあります。堂内には、あの有名な仏師(仏像の彫刻師)、円空の作った仏像が並んでおり、しかも、「弘法さん」の開かれる毎月21日のみ、公開(開扉)されます。そう、今日です!

鉈薬師の名前の由来は、円空が名古屋城築城の余材を利用して、鉈一本で仏像を彫り上げたことによるものです。そのため、円空の一刀彫りとも呼ばれています。ご本尊・薬師仏を囲んで、十二神将と日光菩薩、月光菩薩の二体の脇侍(わきじ)が安置されています。

 

尾張藩のお医者さん、帳振甫(ちょうしんぽ)

 

鉈薬師は、寛文九年(1669年)、尾張藩の藩祖・徳川義直公の御用医師・帳振甫によって建てられました。帳振甫は明国からの渡来人(帰化人)です。お医者さんが建立したお寺であることから、別名医王堂とも言われています。近くには、振甫プールがありますが、「振甫」の名前の由来は「帳振甫」からきているのかもしれませんね。

 

仏師・円空、三十八歳の時の力作

 

ところで、円空は寛永九年(1632年)、美濃国(現在の岐阜県郡上郡美並村)に生まれました。鉈薬師の仏像を彫ったのは38歳の時です。当時の仏師は、今で言えば、アーティスト、芸術家のようなイメージがあったようです。新進気鋭のアーティストとして、帳振甫が円空に仏像作成を依頼しました。鉈薬師の仏像は独特の作風であり、大陸(当時の唐)の仏像に似ているそうです。明国から渡来した帳振甫が故郷を思い、円空にお願いしたのかもしれませんね。

帳振甫と円空の出会い、依頼の経緯などを調べてみましたが、残念ながらよく分かりませんでした。郷土史に詳しい方がいらっしゃいましたら、是非、教えてください。

円空は生涯で12万体の仏像を彫りあげました。現存する仏像は約3000体、北海道から四国まで日本中に散在していますが、やはり出身地の東海地方にたくさん残っています。元禄八年(1695年)715日、岐阜県関市の弥勒寺において、64四歳でにご入定(ご他界)されました。合掌。

 

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弘法さんかわら版   第3号(平成14年9月)

 

 

日泰寺はもともと日寺(にっせんじ)  

 

皆さん、こんにちは。暑い暑〜い夏も過ぎ、九月の中旬になりましたが、いかがお過ごしですか。さて、日泰寺にお釈迦さまの骨(仏舎利=ぶっしゃり)が納められていること、その仏舎利は1898年(明治31年)にインドのピプラーワーというところで発見されたものであること、タイ王室がその仏舎利を日本に寄贈してくださったこと、仏舎利を祀るお寺をここ名古屋市に建設することが仏教界の相談で決まったことなどを、かわら版創刊号でお伝えしました。

ちなみに、日本への寄贈が決まった頃のタイは「シャム」と呼ばれていたことから、当時は覚王山日暹寺(かくのうざん・にっせんじ)と言ったそうです。

(「せん」という字は、「シャム」国の漢字表記です)。1932年(昭和7年)、「シャム」の国名がタイに変更されたことから、1941年(昭和16年)3月31日から覚王山日泰寺(かくおうざん・にったいじ)と改称されて、現在に至っています。

 

どうして名古屋市に?

 

 でも、どうしてここ名古屋市がお寺の候補地となったのでしょうか。ちょっと調べてみました。1900年(明治33年)6月15日、タイのワットポー大寺院で仏舎利分与の式典が催され、日本から真宗大谷派の光演師(句仏上人)ほか四名が奉迎正使として出席しました。その後、正使一行は仏舎利とともに6月19日に帰国の途につき、711日に長崎に到着しました。同19日には仮奉安所に決められていた東山妙法院に納められました。さて、ここからが大変だったようです。

 その時点では仏舎利を正式に納める塔廟(「覚王殿」=「覚王」はお釈迦さまの山号)の建設地は決まっていませんでした。候補地として話題になったのは、主に東京、京都、遠州三方ケ原などですが、各地で寄進を申し出る方々が続出し、ほかにも候補地はあったようです。

 名古屋市が候補地になった経緯は正確には確認できていませんが、覚王殿の設計図製作を請け負ったのが名古屋市の伊藤満作氏であったことと関係があるようです。帝国仏教会は、正使一行がタイに渡っている間に伊藤氏に設計図製作を依頼し、仏舎利が長崎に到着した翌日、712日には縮尺1500分の1の設計図(第一稿)が完成していたといいます。

 仏舎利到着後、1年以上経っても覚王殿建設地は確定せず、日本のタイ公使館の外山義文領事がそのことをタイ国王に報告したところ、国王は「まだ地所も決まっておりませんのか、早く建設資財を寄贈したいと思っておりますのに・・・」と大変ご機嫌が悪かったとのことです。

 

つづきは次号のお楽しみ!!

 

 困った外山公使は、1901年(明治34年)11月26日、帝国仏教会の村田寂順師(会長)と前田誠節師(副会長)に、「一個人の約束と一国の国王との約束とでは重さが異なることをよくよく考慮し、日本仏教徒の恥辱にならぬよう、早急に対処されたい」という厳しい書簡を送りました。

 さて、このつづきは次号のお楽しみです。ご期待ください。

・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)

 

★ 覚王山秋祭 10月26日(土)・27日(日)開催決定!

 

真夏の夏祭に続き、覚王山に「秋祭」がやって来ます。芸術の秋、食欲の秋を日泰寺参道で満喫してください。

 

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弘法さんかわら版   4号(平成14年10月)

 

 

候補地選びの大バトル!

 

皆さん、こんにちは。10月も後半になりました。早いもので、あと2ヶ月で年末ですね。今年はどんな年の瀬になるでしょうか。

さて、前号では、覚王殿建設地がなかなか決まらず、シャム国王やシャム駐在の外山公使から帝国仏教会がお叱りを受けたというところまでお話ししました。

慌てた帝国仏教会は、覚王殿を京都に建設することを「仮決議」しました。しかし、「是非、私たちの地元に!」という宗派がたくさんありましたので、各宗派は「仮決議」に納得せず、「仮決議」は事実上反故(ホゴ=白紙)にされました。何だか、公共工事や空港の誘致合戦みたいですね。

さて、こうした混乱の中で、有力候補地として頭角を表したのが名古屋市です。会員50余万人を擁する名古屋市の「御遺形奉安地選定期成同盟」が、熱心かつ強力な誘致運動を展開しました。多額の寄付金、建設用地、有志数百名の連署で帝国仏教会に請願書を提出したほか、愛知県知事、名古屋市長も帝国仏教会に書簡を送りました。シャム駐在の日本の公使や領事にも陳情を行い、外務省からも後押しされるようになりました。

 

決戦、建仁寺!!

 

明治35年12月(1902)、シャム国皇太子が日本を訪問することになり、帝国仏教会は、何とか皇太子訪日までに覚王殿建設地を決めることを迫られました。同年728日、急遽、京都で各宗派管長会が開かれ、大激論の末、建設候補地は名古屋と京都に絞り込まれました。各宗派は名古屋派、京都派に二分され、候補地は一本化できず、結局、11月12日に最終決定会議が開かれることとなりました。場所は京都市東山の建仁寺(京都最初の禅寺、臨済宗)、いよいよ「天下分け目の関ヶ原」という感じだったようです。

当時の記録によれば、建仁寺周辺は朝早くから殺気立ち(仏教の話にふさわしくないですね、この表現。でも、そんな感じだったようです)、今にも両派の大衝突が起きそうな様相を呈しました。午前中の会議では名古屋派が優勢であったため、午後の会議では京都派が採決方法に異議を申し立てましたが受け入れられず、会議をボイコットする事態になりました。そこで、残った委員で強行採決を行い(国会みたいですね)、37対1で、ついに覚王殿建設地は名古屋市に決定しました。

11月15日、仏舎利はただちに名古屋市に奉遷することになり、仮奉安所は門前町(大須)の万松寺になりました。当日の名古屋市内は、家々が仏旗(ぶっき)と軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は数10キロの長さに渡ったそうです。記録によれば、行列の荘厳さは筆舌に尽くし難く、まるで皇太子様のご成婚記念行列に匹敵するものであったと言います。ところで皆さん、仏旗をご覧になったことありますか(下図参照)。合計五色で彩られた美しい旗です。

翌明治36年(1903年)10月、名古屋市東区(現在の千種区)田代町で覚王殿造営が始まりました。翌年11月に仮本旗仏堂、玄関書院が落成しました。覚王山日泰寺はどの宗派にも属さない単立寺院で、今も創建当時の19宗派で共同運営されています。

 

でも、どうして覚王山?

 

次号では、名古屋市内の中でも、どうして現在の覚王山が選ばれたのかを調べてみたいと思います。

・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)

 

「覚王山秋祭」10月26日(土)27(日)開催!

 

日泰寺参道が「覚王山秋祭」会場に変身!今年はいろんなパフォーマー達が参道をねり歩き、来場者の皆さんや出店者の方を巻き込んで盛り上がります。開催時間10時〜17

 

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弘法さんかわら版   5号(平成14年11月)

 

 

七月から「弘法さんの日」に配布させて頂いています「弘法さんかわら版」も第5号をお届けできるようになりました。たくさんの方が笑顔で受け取ってくださいますので、編集部も毎月21日が楽しみです。今後とも、ご愛読をよろしくお願い致します。「かわら版」のバックナンバー(過去の分)がご入用の方は、遠慮なく編集部(大塚耕平事務所・052-757-1955までご連絡下さい。

 

さて、先月号までは、お釈迦様の骨(仏舎利)が名古屋の地にたどり着くまでの、先人たちの努力と、数々の苦難をお伝えしました。では、名古屋の中でも、どうして覚王山(当時の愛知郡東山村大字田代)が塔廟(仏舎利を正式に納める所)の候補地として適していたのでしょうか?

これまでの調査で分かった理由は二つあります。一つは、当時の東山村が、仏教と縁が深い地域だったからです。覚王山に代々住んでみえる方からお借りした東山名勝(大正十年発行)という資料によれば、当時の東山村は、東西を結ぶ法六字街道(鍋屋上野火葬場道)、南北に走る四観音道という2つの参拝道の交差点だったようです。

とくに四観音道は、尾張四観音と関係する重要な参拝道でした。「尾張四観音」とは、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)の四観音を指します。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町の鬼門の方角に位置した四観音を「名古屋城鎮護」と定め、結界を張って名古屋城を護ろうとしたことが「尾張四観音」の始まりです。

東山村を通っていた四観音道は、このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道です。現在の覚王山西交差点から北東に入る細い道(トリイ自転車さん裏)から松楓閣、日泰寺西、東山給水塔横を通り、現在の天満緑道につながる道だったそうです。今でも道の名前が地名に残っています。「かわら版・第2号」でお伝えした鉈薬師の前が「四観音道西」、日泰寺北の東山給水塔辺りを「四観音道東」と言います。今まで深く考えたことのなかった地名にも、「なるほどなぁ」とうなずかされます。また、「覚王山郵便局」から「丸山神社」へぬける道がその延長になります。

もう一つは、当時の東山村・加藤慶二村長の尽力によるものです。加藤村長は自らの私財を投じて誘致活動に奔走し、有志の協力も得て十数万坪以上の土地の寄進を実現しました。広大な寄進地を用意できたことが、誘致成功の鍵だったのではないでしょうか。加藤翁は村長を四期務め、地域の発展に献身的に尽くされ、日暹寺(にっせんじ=日泰寺)と東山(覚王山)興隆の多大な功労者だったそうです。古来から、寺院の誘致によって縁日を開き、参拝客に散財して頂くのは、地域経済にとって重要な景気対策だったそうです。加藤村長はそういうこともお考えだったのかもしれません。加藤村長、ありがとうございました!

その後の覚王山の賑わいは、今では想像できないほどだったと言います。日泰寺周辺の半径数百メートル以内に収まっているお手軽な「八十八ヶ所霊場巡り」が大人気で、その人気に目をつけた「弘法さん」の縁日との相乗効果(今風に言うとシナジー効果)も働いて、覚王山までの路面電車は大混雑、臨時電車を出してもさばき切れないほどだったそうです。

覚王山商店街の皆さん!覚王山に再び以前の賑わいがよみがえるよう、一緒に頑張りましょう!

次号は、覚王山界隈の地名の由来を探ります。おたのしみに。

 

参考資料:「東山名勝」「えーなも探偵団」「田代」他

 

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弘法さんかわら版   6号(平成14年12月)

 

 

皆さん、こんにちは。今年もあとわずかになりました。弘法さんかわら版を毎月ご愛読頂きまして、本当にありがとうございます。

さて、先月、かわら版といっしょにチラシをお配りした「四国霊場八十八ヶ所・空海と遍路文化展」―弘法さま・名古屋にござる―(名古屋市博物館)をもうご覧になりましたでしょうか?開催は今月23日(月・祝)までです。ご興味のある方は、お急ぎ下さい。四国霊場千三百年の歴史と文化の分かり易い解説、ならびに数々の国宝と重要文化財が展示してあります。この機会にお見逃しなく!!

 

ところで、今月号では覚王山界隈の地名の由来を勉強してみました。

覚王山・・・「覚王」はお釈迦さまを表します。日泰寺の「山号」です。

覚王山通・・・1904年(明治34年)覚王山日暹寺(にっせんじ)が建てられた時にできた地名です。当初は、中央線千種駅付近から一丁目が始まり、覚王山バス停付近の九丁目までありました。現在は池下交差点の七丁目から九丁目までしか残っていません。参道西側の九丁目には、覚王山名物の「氷屋の丸筆さん」「フルーツの弘法屋さん」「江戸寿司さん」など、有名な老舗がいっぱいです。ちなみに、先日オープンした参道入口東側の「スターバックスさん」は、意外にも末盛通一丁目でした。

山門町・・・日泰寺の山門から覚王山通までの参道の両側にこの名が付けられました。

末盛(末森)・・・日泰寺を東に下った森に囲まれた集落では、かつて陶器作りが盛んだったそうです。陶器のことをむかしは「スエ」といい、陶物(スエモノ)が「スエモリ」となったのではないかと言われています。昭和二十年の区画整理の際に、「末代まで盛える街に」という願いを込めて、末盛となったという話も聞きました。

月見坂・・・江戸時代、瓶杁山(かめいりやま、東山公園の東側)の徳川家別荘と名古屋城をつなぐ道の途中にこの坂がありました。坂道から眺める月が美しかったことから、いつの頃からか自然に「月見坂」と呼ばれるようになったそうです。現在の月見坂町は「はちや整形外科病院さん」の北側になりますが、もともとの月見坂は、末盛通に面した「床屋のコワフール・スズキさん」や「鬼まんじゅうの梅花堂さん」の辺りから田代小学校北の観月町の坂辺りにあったと言います。なお、観月町も月が美しく見えることに由来して付いた地名です。

丸山・・・日泰寺南側の丘陵地一帯を指します。丸山神社の棟木札(今から七百七十年前のもの)に「上野の庄丸山」と書かれていることから、その当時、既に丸山という村があったようです。由来はハッキリしませんが、本当に丸い丘なので、きっと「丸山」になったのだと勝手に想像しています!?

法王町・・・「法王」とは宗教の宗主(=教皇)のことを指します。日泰寺が十九宗派の共同寺院であったことに関連してつけられた地名のようです。

大島町・・・郷土芸能として有名な「棒の手」の名手、大島三右衛門さんの屋敷があったことに由来して付いた地名だそうです。

参考資料:田代小学校創立百周年記念誌など

 

覚王山の大晦日

 

大晦日の日泰寺参道では、毎年夜11時頃から「とん汁」のふるまいがあります。場所は「覚王山情報館」(「お好み焼きのおよしさん」と「理容菊水さん」の間)の前です。とん汁でからだを暖めながら、集まった皆さんで「カウントダウン!」(6・5・4・3・2・1・0!オメデトー!)が行われます。日泰寺では「除夜の鐘」を打つことができます(今年は事前申込者のみ)。覚王山商店街の年越し深夜営業のお店については、商店街発行の「覚王山新聞」を参考にして下さい。

 

それでは皆さん、来年もよろしくお願い申し上げます。よいお年を!!

 

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弘法さんかわら版   7号(平成15年1月)

 

 

皆さん、明けましておめでとうございます。弘法さんかわら版も創刊2年目に入りました。今年もご愛読頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

さて、昨年は日泰寺誕生のいきさつなどをご紹介しました。今年は、日泰寺の誇る日本最小の八十八ヶ所霊場について勉強していきたいと思います。

皆さんご存知のように、四国八十八ヶ所霊場は弘法大師(空海)の修行場となったお寺のことです。その寺々(霊場)を巡礼することをお遍路と言います。

 

巡礼・遍路は、古くから信心深い庶民にとって憧れの旅でした。実は、四国以外にも巡礼地は全国各地に存在しています。津軽、越後、出雲など三十三ヶ所霊場のほか、十三、十七、十八、十九、二十、二十四、二十五、二十七、三十二、三十四、三十六、四十九など、巡礼地の「数」もけっこうバラエティに富んでいますが、もっとも多いのが三十三ヶ所霊場八十八ヶ所霊場です。なぜこのふたつの「数」が多いのかはよく分かりません(ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください)。

そうした中で、四国と並んで八十八ヶ所霊場を擁しているのは、九州(九州全県)、篠栗(福岡県)、小豆島(香川県)、知多(愛知県)等のほか、ご当地、覚王山日泰寺です。八十八ヶ所もの巡礼となれば、四国全土など相当広域に霊場が散在しているのが一般的ですが、日泰寺の霊場は何と半径数百メートルの範囲に収まっています。一日で回りきれる八十八ヶ所巡礼は、ここ日泰寺だけです。

各地の巡礼地はさまざまな由来で誕生しました。日泰寺の場合、弘法さん(縁日)に合わせて霊場が設置されたのか、あるいは霊場が先で、それに因んで弘法さんという縁日が開始されたのか、定かではありません。日泰寺誕生が明治三十七年であるのに対し、霊場設置と縁日開始は明治42年のようです。地元の方にお借りした東山名勝という大正時代の文献の中に、四国八十八ヶ所は當山境内に於ける呼物とも謂うべきであるとの記述があることを勘案すると、どうやら観光名物として意識的に設置されたもののようです(今風に言うと、イベントでしょうか)。

霊場の名前が四国とまったく同じであることも、観光名物として計画的に設置された証左と言えます。一番札所の霊山寺から、八十八番札所の大窪寺まで、四国霊場と日泰寺霊場は完全に一致しています。因みに、知多八十八ヶ所霊場の場合、一番札所は曹源寺八十八番札所は円通寺と言います。知多の霊場は、既存のお寺を活用して設置されたようです。

ところで、日泰寺の霊場は周辺七ヶ所の場所に分散しています。これらの場所を整理した覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場と碑塔」という資料があります。それによれば、霊場はもともと札所の番号順に並んでいたそうですが、日泰寺の本堂、霊堂、納骨堂などの新改築、周辺道路の拡幅工事等のために、全体の四割程度が当初の場所から移転したようです。その結果、現在の場所に落ち着いたのは昭和の終り(1980年代)頃ということです。

なお、その資料は、地元の吉野忠夫さんと片岡正明さん(フルーツの弘法屋さんのご主人)が制作された貴重な資料です。編集部(大塚耕平事務所)に余部がありますので、ご興味がある方に差し上げます。お気軽においでください。

平成15年の弘法さんかわら版は、日泰寺八十八ヶ所霊場を中心に、巡礼・遍路に関する情報を皆さんにお届けします。どうぞご期待ください 

それではまた来月、お会いしましょう

 

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弘法さんかわら版   8号(平成15年2月)

 

 

皆さん、こんにちは。立春が過ぎ、桜の開花や若葉が芽吹くのが待ち遠しい季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。さて、今月も八十八ヶ所霊場の話題をお伝えします。

四国八十八ヶ所霊場は、1年中いつでも参拝することができます。ところが、ここ覚王山の霊場は、毎月21日の「弘法さん」の縁日の日しか札所は開門・開扉されません。ご存知でしたか? 普段は門や扉に鍵がかかっており、中には、シャッターや雨戸が閉まっている所もあります。実は、大半の札所が、縁日の日だけ参拝ができるように、代々ご近所や、遠方の民家の方がお世話をしてくださっているのです。本場四国巡礼の「お接待さん」のような役割ですね。

 

「お接待さん」とは、道行く「お遍路さん」たちの食事のお世話、手拭いなどの必需品の差し入れ、道案内、札所の御守などをしてくださる方々のことを、総称してそう呼びます。そもそも、「お遍路さん」とは「弘法大師と同行二人の修行者たち」という意味だそうです。「お遍路さん」こそ、身分、貧富、老若男女の区別のない「真の修行者たち」であり、その人たちに奉仕することも、また有り難い修行のひとつと考えられています。「お接待さん」たちの集まりを「接待構」と言います。因みに、四国一番札所の霊山寺に属する「接待構」のひとつが、和歌山県野上町を本拠地とする「野上接待構」で、今でも約60人の「お接待さん」が交代で霊山寺巡礼者のお世話をしているそうです。何と220年の歴史を誇ると言います。今風に言うと、ボランティアやNPOのルーツのような組織ですね。有り難いことです。

さて、先月の「弘法さん」の日の夕方、一〜四番札所をお邪魔してみました。「お接待さん」の皆さんが帰り支度をされていましたが、手際よく荷物を整理して札所の中にしまったり、ご自分の車に積み込んで持ち帰る準備の最中でした。お話を伺ってみると、三代前から札所の御守をしてくださっている方もいらっしゃいました。皆さん、本当にありがとうございます。合掌。

ところで、先月号では、覚王山の八十八ヶ所霊場は、本場四国霊場と同じ名前が付けられていることをご紹介しました。いくつかの札所の「お接待さん」にその事を伺ってみたところ、「ヘェ〜、知らんかったわ」というお返事でした。同時に各札所のご本尊の名前を聞いてみたところ、教えて頂いたご本尊名はいずれも四国霊場各札所のご本尊名と同じでした。札所の名前だけではなく、ご本尊の名前も四国霊場と完全に一致しているようです。また、各札所とも、ご本尊のほかに弘法大師像も奉っていらっしゃるそうです。今後、順に調べて行きたいと思います。

一〜四番札所の近くにある「千体地蔵」も、やはり「弘法さん」の日だけ堂内に入って参拝ができます。「千体地蔵」は、日泰寺の係りの方が面倒をみてくださっています。お線香の販売、賽銭箱(かごです)の管理、賽銭の両替などをしてくださいます。

今では毎月21日しか参拝できない札所や「千体地蔵」ですが、以前は毎日参拝できたのかもしれません。現に、「かわら版」編集部のスタッフは、子供の頃、放課後に「千体地蔵」の中に入って遊んでいた記憶があります。「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」をするには絶好の場所でした。戦後の混乱期には、住む場所に困った方々が札所に寝泊りしていたこともあったそうです。

 

今後の行事予定

 

さて、来月(3月)の21日は御祥当と言って弘法大師の命日です。各札所で行われる「お接待さん」による茶菓の振る舞いも、いつもより盛大に行われるそうです。4月8日は花祭りと呼ばれ、お釈迦様の誕生日です。年に一度だけ拝観できるお釈迦様の像、花で飾られたお釈迦様の像に甘茶を掛ける儀式、有り難くて不思議な甘茶の振舞い等々、いろんな行事があるようです。ご関心のある皆さんは、どうぞ奮ってお運びください。それでは、また来月お会いしましょう。

 

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弘法さんかわら版   9号(平成15年3月)

 

皆さん、こんにちは。今日は春分の日、早いものでもう桜の季節ですね。お花見シーズンをお見逃しなく!!

先月号では、覚王山・八十八ヵ所霊場(札所)のご本尊のお話をお伝えしました。札所の名前(寺院名)は四国霊場と全く同じですが、ご本尊の名前はどうなっているのでしょうか?さっそく、いくつかの札所の「お接待さん」に確かめてみました。

結論的に申し上げれば、四国霊場と同じご本尊を祀ってある札所は意外に少ないようです。四国霊場では薬師如来のはずが覚王山札所では観音様だったり、中には、弘法大師像と並んで「お接待さん」のご先祖様が祀ってある札所もありました。これから地道に調査をして、いずれ札所とご本尊の一覧表を作りたいと思います。

 

「お遍路」の順番?

 

ところで、札所はどういう順番で回るかご存知ですか?「そんなもん、番号順に決まっとるがね」と呟かれた方が多いと思いますが、一番札所からスタートする場合と、八十八番札所からスタートする場合があります。前者を「順打ち」、後者を「逆打ち」と言います。四国霊場の場合、「順打ち」は「阿波→土佐→伊豫→讃岐」という時計回りになります。「逆打ち」は時計と反対方向に回ることになります。

また、「通し打ち」「区切り打ち」という言葉もあります。「通し打ち」は全区間(八十八ヵ所)を一気に回ること、「区切り打ち」は区間を区切って何回かに分けて回ることを指します。本場四国では「通し打ち」をできるお遍路さんは少なく、主流は「区切り打ち」のようです。

 さて、覚王山・八十八ヵ所霊場の場合はどうでしょうか。まず、札所の順番はバラバラです。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ、もともとは札番順に並んでいたものが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂の建設、姫池通の拡幅工事などによって移設されたためという話も聞きました。各札所が今の場所に落ち着いたのは、昭和の終わり頃だそうです。

 したがって、覚王山・八十八ヵ所霊場では「順打ち」も「逆打ち」もなかなか大変そうですが、その一方で、何しろ半径1キロメートル以内に全札所が集まる「日本最小の・八十八ヵ所霊場」です。全国の霊場で最も「通し打ち」に適した巡礼地と言えます。有り難いことですね。

 

「お接待さん」の後継者問題

 

札所番号碑の石柱の裏に○○商店と書いてあるものもありました。「お接待さん」に伺ってみると、○○商店の従業員の皆さんが代々札所のお世話をしているそうです。若い人たちがなかなか後を継いでくれないようで、中小企業や商店と同様に、ここにも後継者問題があるようです。無縁札所になってしまわないように、ひとりで複数の札所を守っている方もいるようです。

さて、先月号でもお伝えしましたが、今日は弘法大師の命日「御祥当」と言われます。「お接待さん」の皆さん、御苦労様でございます。これからもよろしくお願い致します。合掌。

 

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弘法さんかわら版   10号(平成15年4月)

 

 

皆さん、こんにちは。4月になりました。お花見には行かれましたでしょうか。今月前半は花冷えのする日が続きましたが、だいぶ暖かくなってきました。お花見に時期はちょっと寒かったですよね。

覚王山祭り(春祭)の日もあいにくの天気でした。事務局の皆さんも、出店している皆さんも、本当に寒そうでした。お疲れさまでした。夏祭は天候に恵まれるといいですね。

さて、先月は「お遍路の順番」をご説明しました。「順打ち」、「逆打ち」、「通し打ち」、「区切り打ち」など、いろいろな回り方があることをご紹介しました(詳しくは前号をご覧ください)。今月は「お遍路さんの衣装」について調べてみました。

 

白装束の由来

 

 「お遍路さんの衣装」と言えば、ご存じ、白衣に輪袈裟、手甲、脚半を身に付け、数珠を手にした白装束です。腰には、納経帳を入れた布袋(さんや袋)をぶら下げます。

 白衣はもともと「死に装束」です。巡礼ブームに沸いた江戸時代には、不治の病の治癒を願った巡礼者が、お遍路の途中で倒れて亡くなることが日常茶飯事だったそうです。そこで、「せめて手厚く弔いたい」と願った「お接待さん」たちが、白装束を用意して提供したのが「お遍路さんの衣装」の始まりといわれています。「そりゃあ、知らんかったわ」と言う方も多いことと思います。

 

「お遍路さんの衣装」の定番は下の図のとおりです(「高知県東部四国霊場めぐり」のホームページhttp://www.attaka.or.jp/haru03/henro/he_kiso4.htmlを参考にさせて頂きました)。「金剛杖」、「納経帳」、「納め札」は最低限の必須アイテムだそうです。とくに、「金剛杖」は弘法大師の分身と言われ、大切に扱わなくてはなりません。

 菅笠には「同行二人」と書くそうですが、これは「弘法大師と道連れ」という意味のようです。お遍路もいろいろとお作法やしきたりがあって、勉強が必要ですね。

 本場四国では、一番札所の霊山寺(徳島県鳴門市)の門前に「門前一番街」というお店があるそうです。巡礼アイテムや土産物を売っているお店ですが、白装束一式が1万2千円前後で用意できるそうです。

 

覚王山スタイル

 

 「日本最小の八十八カ所霊場」に覚王山霊場ですが、白装束で回っている方は見かけないですね。「霊場巡りは必ずこの服装」と決まっている訳ではないそうですが、やはり白装束を身にまとうと雰囲気が違います。

 覚王山霊場は全国的には無名です。地元(愛知県下)でもあまり知られていません。しかし、「日本最小の八十八カ所霊場」は観光名所になるかもしれませんね。そのためにも、いずれ、覚王山スタイルと呼ばれるような独自の「お遍路の衣装」を考えてみようと思います。

では、また来月お会いしましょう。

 

遍路ファッション

 

 

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弘法さんかわら版   11号(平成15年5月)

 

 

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。あっという間に一ヶ月が過ぎてしまいますね。

さて、先月号では「お遍路さんの衣装」についてご説明しました。白装束で行脚する由来もお分かり頂けたかと思います。ちょっと変わった行事が行われている札所についてご紹介させて頂きます。

「日本最小の八十八ヵ所霊場」であるここ覚王山日泰寺周辺の巡礼地は、小さな祠が単に並んでいるだけではなく、一軒一軒独立したお堂となっており、毎月21日になるとそれぞれの管理者の方が「お接待」をしてくださいます。番外の祠や、一部の祠は日泰寺が管理してくださっているとも聞きますが、基本的には、各札所ごとの「お接待さん」がいらっしゃり、あくまでも自主管理をされているようです。今風に言えば、ボランティアです。それぞれの札所の「お接待さん」相互の交流はあまりないようですね。「弘法さんかわら版」編集部としては、今後、「お接待さん」相互のネットワーク作りにもお役に立ちたいと思います。

 

「焙烙(ほうろく)灸」って何?

 

常連の参拝客の方々の中には、ビニール袋一杯の小銭(ほとんどが1円か5円玉)を用意して、全部の札所の賽銭箱に入れていく方もいらっしゃるようです。各札所では、それぞれ趣向を凝らしたお接待をしてくださいます。お菓子などをサービスしてくれるところもあります。珍しいお接待のひとつとして「焙烙(ほうろく)灸」というものがあります。

「焙烙灸」の由来は、昔、炎天下で暑さ負けした武将が、カブトの上から灸をすえたところ、たちまち元気になったという話に端を発しています。以来、すり鉢のような容器(=焙烙皿)を頭にのせて、そのうえでもぐさを炊いて灸をすることを「焙烙灸」と言うようになりました。そして、弘法大師がこの「焙烙灸」の効能を熱心に説いたと言われています。

その結果、全国各地のお寺や巡礼地で、一年で最も暑い盛りの「土用の丑の日」や弘法大師のご縁日(毎月21日)に「焙烙灸」を行うようになったそうです。ここ覚王山巡礼地において、編集部が確認できた「焙烙灸」を行っている祠は、八十八番札所周辺です。ほかにもあるかもしれませんね。

医学的には、頭の上に「百会のツボ」と言われる「ツボ」があるそうです。「焙烙灸」はその「百会のツボ」に灸をして刺激することで、脳の活性化、ボケ防止、夏バテ防止をはじめ、心身の健康に対して効果があると言われています。そのため、「焙烙灸」は無病息災、身体健全を祈願するお加持(祈祷)となっています。弘法大師は医学的な知識もあったのかもしれませんね。

 

「八十八ヵ所」の由来

 

ところで皆さん、過去のかわら版で巡礼地には「十八」とか「三十三」、そして最も一般的な「八十八」とか、いろんな数があることをご紹介しました。覚えていらっしゃるでしょうか。

さて、「八十八ヵ所」の由来は何でしょうか?いろんな説がありますが、「」の文字から、五穀豊穣を祈念する数字であると言われたり、厄年の合計(男42、女33、子供13)とも言われています。真相は何でしょうか。

 では、その他の数(十七とか三十三)にもそれぞれ由来があるのでしょうか。「お遍路」は奥が深いですね。興味が尽きません。

 それでは皆さん、また来月お会いしましょう!!

 

 

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弘法さんかわら版   12号(平成15年6月)

 

 

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。

「弘法さんかわら版」も12号になりました。昨年の七月に創刊号を配布させて頂いて以来、今回でちょうど一年です。毎月、たくさんの皆さんが受け取ってくださるおかげです。本当にありがとうございます。過去のかわら版(バックナンバー)をご希望の方は、ご遠慮なく編集部(大塚耕平事務所:覚王山バス停前、電話052-757-1955)までご連絡ください。なお、大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/ にもアップ(掲載)してあります。

 

「無空」→「空海」→「弘法大師」

 

「弘法さん」=「弘法大師」は、ほかにも「お大師さん」「弘法さま」「お弘法さん」などとも呼ばれます。しかし、「弘法大師」というのは、大師がお亡くなりになった八十年も後に、朝廷から与えられた称号(諡号=しごう)だそうです。

幼少の頃から神童と言われていた大師は、十八歳の時に生家(善通寺誕生院=現在の七十五番札所)を出て名を「無空」と改め、やがて山岳修験者となりました。そして阿波の太龍寺岳(太龍寺=二十一番札所)や土佐の室戸岬(最御崎寺=二十四番札所)などで激しい修行を重ね、二十歳の時に和泉国槇尾山寺(四番札所)で得度し、名を「如空」としました。後に「教海」、さらには「空海」と改めました。

また、遠路中国に行かれた際には、「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたそうです。

 

四国巡礼地は「弘法大師」修行の場

 

四国八十八ヶ所霊場は、大師が四十二歳の時に、それまでに修行をした場所を連ねて開創されたと伝えられています。

大師がお亡くなりになった後、高弟「真済」が霊場を遍歴したのがお遍路の始まりだそうです。また、「右衛門三郎」という人物が、自己の非を悟って四国霊場を巡ったのがお遍路の始まりと解説している本もあります。

いずれにしても、大師に対する信仰は徐々に高まり、平安時代末期には修行僧を中心に巡礼が行われていたようです。室町時代に入ると一般庶民も参加するようになり、お遍路が完全に定着したのは室町時代末期から江戸時代にかけてと言われています。

 

 

知立の「弘法さん」

 

ところで、先月の「弘法さん」は露店の数が少なかったと思いませんか。実は知立の「弘法さん」と日が重なり、露店商の皆さんが分散したそうです。知立の「弘法さん」は旧暦の月命日(21日)に開催されますが、先月は新暦(覚王山)と旧暦(知立)の月命日が同じ日になったようです。

知立の「弘法さん」は、三河三弘法の一番札所として知られる「遍照院」(へんじょういん)で開かれます。「見返弘法大師」と呼ばれる本尊が祀られています。旧暦の21日には沢山の露店で賑わうそうです。そちらにも、是非お出掛けください。それでは、また来月お会いしましょう。

 

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弘法さんかわら版   13号(平成15年7月)

 

皆さん、こんにちは!「弘法さんかわら版」も二年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。過去のかわら版(バックナンバー)は編集部(大塚耕平事務所・覚王山バス停前、電話052−757−1955)にございます。

大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/にもアップ(掲載)してあります。

 

住宅?密集地域はB地区

 

覚王山八十八ヶ所霊場は1キロメートル四方に全ての札所が集まる「日本最小の霊場」です。札所はAからGの七地区に分かれており、一番多くの札所が集まっているのが日泰寺本堂東側のB地区です。B地区には、五〜二十三番、二十五番、八十六〜八十八番の二十三の札所が二百坪くらいの土地にギュウギュウに詰め込まれています。仏様の住む集合住宅、あるいは住宅密集地域という感じでしょうか。

 

歴史的建造物もギュウギュウ

 

ところで、日泰寺境内には、本堂、普門閣、寺務所、山門などがありますが、いずれも鉄筋コンクリート造りで、どちらかというと近代的な風情です。ところが、本堂の裏手に回ると、大規模な「坐禅堂」、大書院「鳳凰台」、そして「草結庵」「同夢軒」という二つの茶室が有名な「庭園八相苑」があります。本堂前の近代的な雰囲気とは対照的に、いかにも日本的な落ち着いた佇まい(たたずまい)です。本堂の東側には松坂屋創業家(伊藤家)別邸「楊輝荘」、西側には御殿風の建築が目を引く料亭「松風閣」もあります。八十八ヶ所霊場以外にも興味深い史跡や建築物があるのが、ここ覚王山日泰寺の周辺なのです。

 

水の空海、火の最澄

 

先月号では弘法大師(空海)のお名前の移り変わりを説明させて頂きました。遣唐使として遠路中国に行かれた際には「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたこともご紹介しました。中国では天台宗の開祖として高名な伝教大師(最澄)も一緒に修行をされたそうです。

両大師には数々の伝承が残っています。空海は雨乞いの名人であったほか、渇水に苦しむ土地に杖を差し、経を唱えると地下水が噴出したと言われています。そうした水場は全国各地にあり、「弘法水」と言われています。

 一方、最澄には火にまつわる伝承が残っています。最澄が建造した比叡山延暦寺には、千年以上燃え続けている有名な「不滅の灯明」があります。遣唐使から帰国した際に使っていた「灯明の火」も、福岡県の「千年家」と言われる灯番家が四十数代も守り続けているそうです。

 

覚王山夏祭は26〜27日

 

さて、5月号でお伝えした「焙烙灸(ほうろくきゅう)」は八十七番札所で弘法さんの日に行われています。全国的には無病息災、体力増進を祈願して「土用の丑の日」に実施されることが多いようです。

「土用の丑の日」と言えばウナギですね。覚王山日泰寺参道には「魚長さん」という鮮魚料理屋さんがあります。お昼時には、お店の中から美味しそうなウナギの匂いがしてきます。ウナ丼880円、たいへんお値打ちです。美味なることは編集部がお約束します。

 

 日泰寺のお坊さんが参道で健康と安全を祈願してくださる幻想的な儀式「泰火祭」が25日(金)の午後7時から行われます。翌26日(土)と27日(日)は恒例の覚王山夏祭です。是非お出掛けください。

 

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弘法さんかわら版   14号(平成15年8月)

 

 

残暑お見舞い申し上げます。先月26日、27日に行われました「覚王山夏祭」は天候にも恵まれ、たいへんな賑わいでした。事務局の皆さん、ボランティアの皆さん、出店者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

 

以前の札所は一軒家?

 

 先月の弘法さんの日に、日泰寺本堂東側のB地区をやや北へ歩いた所にある二二番札所で貴重なお話を伺うことができました。二二番札所は、今は大人2人が入れるくらいの小さな祠(ほこら)ですが、戦後間もない頃は八畳二間に台所も付いており、一時は一家五人が住んでいたそうです(かわら版第八号でお伝えしたことの事実確認ができました)。そのご家族は、今でもご恩返しとして札所の世話をされているそうです。

 

観光客で溢れた「放生池」

 

さて、二二番札所を北に進むと日泰寺の参拝者大駐車場があります。ここには以前姫が池という池がありましたが、別名放生(ほうじょう)池とも呼ばれていました。昔は観光名所であり、コイやフナが群れをなし、池の周辺には売店が軒を並べていました。かわら番編集部の面々も子供の頃は「放生池」で釣りやザリガニ捕りをしていました。

「放生」とは、捕らえられた魚や鳥を逃がしてやることです。人間は日頃の食生活や日常生活で多くの殺生(せっしょう)を行っていることから、功徳を積む意味で「放生」という考え方が生まれたそうです。起源は中国ですが、日本では天武天皇の命で始まったとも言われています。全国の寺院には「放生池」や放生会(ほうじょうえ)と呼ばれる縁日があります。

 

山号の歴史

 

ところで、覚王山が日泰寺の山号であることは以前にご紹介しました。お寺の名前に山号をつけるようになったのも、その起源は中国です。日本では、奈良時代の飛鳥寺でも法隆寺でも山号はなく寺名だけでした。

平安時代になって、最澄(伝教大師)空海(弘法大師)が中国から帰国し、山中に寺を建てるようになって山号が普及したそうです。そして、比叡山延暦寺高野山金剛峰寺の建立によって山号は完全に定着し、鎌倉時代には平地の寺まで山号をつけるようになったそうです。

 

新しい覚王山マップ完成!

 

 新しい覚王山マップが完成しました。新しいお店や情報が盛り沢山です。覚王山商店街の店頭や大塚耕平事務所にあります。ご自由にお持ち帰り下さい。覚王山周辺は、面白いお店や史跡がいっぱいです。名古屋の新しい観光名所となるように、今後とも日泰寺や日本最小の札所の話題をご紹介していきます。乞うご期待!

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弘法さんかわら版   15号(平成15年9月)

 

皆さん、こんにちは。もうお彼岸になってしまいました。早いですねぇ。季節の変わり目ですので、健康にはくれぐれもご留意ください。

 

★お彼岸は純国産

 

そのお彼岸ですが、秋分・春分の日をはさんで前後三日間が彼岸の期間になります。十三世紀に渡来した中国の大休和尚というお坊さんが、「日本国には春秋に彼岸という風習がある」と記録しています。お彼岸という風習は中国にもインドにもなく、日本固有のものです。純国産の習慣が仏教信仰と結びついて現在のかたちになったと言われています。ご存じでしたか。

 

★苦難の船出から千二百年目

 

さて、弘法大師がはるばる唐の都・長安(現在の西安)をめざして海を渡ったのは804年(延暦23年)のことでした。今年は2003年ですから、ちょうど1200年目になります。

 弘法大師は国内で修行を続けていましたが、経典はインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)で書かれていたほか、呪文や秘文について分からないことが多かったため、教義を学ぶために唐に渡ることを決意したのです。弘法大師、30歳の時でした。

 

★口伝から始まった仏教の教え

 

仏教の教えを説くお経は非常にたくさんの種類があります。「八万四千の法門」という言い方もあり、正確にいくつのお経があるか分かりません。

お釈迦様(仏陀)はその教えを記録に残しませんでした。全て口伝(くでん)です。そこで、お釈迦様が亡くなった(入滅)後、500人の阿羅漢(あらかん=悟りを得た人)が集まり、教えを記録する作業が始まりました。しかし、お釈迦様は弟子の個性に合わせた教えを説いていたので、実に様々な経典が生まれ、以来、多くの内容に発展していったそうです。

弘法大師は、そうした教えの定義(教義)を学ぶために唐に渡りました。

 

★覚王山霊場の開山は誰?

 

ところで、ここ覚王山の「日本最小の八十八カ所霊場」は誰が開山したのでしょうか。

記録によれば、明治42年、山下圓救師、伊藤萬蔵、花木助次郎、奥村新兵衛による勧進帳から始まったそうです。以後、大正初期にかけて八十八カ所が整備されました。

八十八カ所霊場がAからGの七地区に分かれていることは以前にご紹介しました。本堂から東に向かい、姫が池(放生池)通りを渡ってC地区からD地区に行く途中に、開山の祖、山下圓救師の墓所があります。是非一度、お参りしてください。

 

★「空海と高野山」特別展覧会

 

 弘法大師入唐千二百年を記念して、愛知県美術館にて「空海と高野山」特別展覧会が開催されます。国宝21点と重要文化財96点が一堂に集結します。高野山の宝物の全容を紹介する初めての機会です。乞うご期待!

 開催期間 1010日(金)〜 1124日(月)

 場所 愛知県美術館(栄の県立芸術文化センター内)

    電話 971−5511 

 

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弘法さんかわら版   16号(平成15年10月)

 

 皆さん、こんにちは。今月の12日から13日にかけて、「覚王山秋祭」が行われました。おでかけになりましたか。関係者の皆さん、お疲れさまでした。

 

安産・子育て祈願の子安大師

 

さて、弘法大師は実に様々な偉業(奇跡)を成し遂げたと伝えられています。このかわら版でも、焙烙灸(ほうろくきゅう)で病気を治したり、井戸水を掘り当てたというお話を紹介させていただきました。

ほかにも、子安(安産、子育て)の奇跡を起こしたと言われています。

ある時、弘法大師が伊予の国(愛媛県)の香園寺(こうおんじ)というお寺を訪ねたところ、ひとりの妊婦が難産に苦しんでいるのを見つけました。そこで、栴檀(せんだん)の木を焚いて祈祷したところ、無事に元気な男の子が生まれたと伝えられています。栴檀の木の皮は、古くから漢方薬や虫除け剤として使われていたようですが、どのような薬効があったのでしょうか。

以来、香園寺は第六十一番札所となり、山号も栴檀山とされました。大正時代には子安講ができ、安産、子育てにご利益があるとして女性の信仰を集めました。

子安の奇跡に因んで、弘法大師のことを子安弘法とか子安大師と呼ぶこともあります。

 

お地蔵さんの赤いよだれかけ

 

ところで、お地蔵さんと言えば赤いよだれかけですね。でも、なぜよだれかけを掛けているのでしょうか。

それはお地蔵さんが子どもを守るという役目を果たしているからです。

古来、お地蔵さんは村々の境にあり、人々が集まり、縁結びのきっかけになったと言われています。そうした由来から転じて子育ての象徴へと発展したそうです。そして、よだれかけを掛けるのは、お地蔵さんに子ども守ってもらうようお願いするためです。「この匂いがわが子のものです。どうぞよろしくお願いします」というわけですね。

 

覚王山の子安弘法

 

日本最小の覚王山八十八ヶ所霊場にも、もちろん香園寺があります。日泰寺本堂の東側、札所が密集するB地区の中です。子安弘法と彫られた石碑もしっかりと建っており、また付近にはたくさんのよだれかけが掛かっています。お子さんやお孫さんのために、ぜひ一度お参りしてください。

 

東洋一の子安大師像

 

東洋一大きな子安大師像は愛知県蒲郡市三谷にあります。全長六十二尺(17.78メートル)の像です。名古屋の熱心な信者さんが建立を発願し、昭和13年に完成したそうです。なぜ62尺かと言うと、弘法大師が62歳でご入定(他界)されたことに因むものです。

 

参道ミュージアム

 

11月3日まで覚王山商店街振興組合「街づくり委員会」主催の参道ミュージアムが開かれています。最も盛り上がるのは11月1日から3日までの3日間。数々の芸術作品の展示やミニ演劇が楽しめます。ぜひお出かけください。                                                                       

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弘法さんかわら版   17号(平成15年11月)

 

皆さん、こんにちは。すっかり秋も深まり、朝晩は寒々としてきました。くれぐれもご自愛ください。

 

弘法大師のご利益

 

 さて、先月、弘法さんかわら版をお配りしている時に、ある読者の方から「眼病快癒のご利益がある『目なおしのお札』のこと、知っとる?」と尋ねられました。

 これまで、渇水を癒す「弘法水」(第13号)、安産子育て祈願の「子安弘法第16号)といった、数々の弘法大師のご利益を紹介してまいりましたが、まだまだ他にもあるようですね。早速、編集部で調べました。

 

道隆寺の目なおし薬師様

 

 眼病治癒にまつわる弘法大師の偉業は、四国八十八カ所霊場の七十七番札所、桑多山道隆寺(そうださんどうりゅうじ)に言い伝えられています。

 この寺のご本尊は、弘法大師が自ら彫った薬師如来像です。ある時、道隆寺を目の不自由な丸亀藩(香川県)士、京極左馬造が訪れ、薬師如来像に快癒を祈願したところ、たちどころに目が見えるようになったそうです。以来、この薬師如来像は「目なおし薬師様」と呼ばれ、今でも多くの方が眼病快癒を願って道隆寺を訪れます。

しかし、この薬師如来像がご開帳されるのはなんと五十年に一度だけ。なかなか貴重なご本尊ですね。

 

覚王山の「目なおし薬師様」

 

さて、日本最小の覚王山八十八カ所霊場の七十七番札所はどうなっているのか確かめてきました。日泰寺奉安塔の奥、F地区の一角道隆寺があり、石造りの薬師如来様が二体並んで鎮座されていました。ちょっと遠いですが、眼がお疲れの皆様、お参りの際に足を伸ばされてはいかがでしょうか。

 「目なおしのお札」については、参道の途中で配られていたという話は聞きましたが、それ以上のことはわかりませんでした。何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非編集部にご教示ください。

 

錫杖と独鈷

 

 栃木県足利市富田には、眼病快癒のご利益のある井戸水があります。渇水に苦しむこの地を訪れた弘法大師が、持っていた杖(錫杖=しゃくじょう)で地面に突いて清水を湧かせ、その水に眼病治癒の願をかけられたそうです。「弘法水」と「目なおし」が結びついているんですね。

 温泉や湧水にまつわる弘法大師伝説は、独鈷(とっこ)や錫杖で地面や岩を突いたというものが一般的です。県内でも、鳳来町に弘法大師が全国行脚の際に発見した赤引(あかひき)温泉があります。一度行ってみたいですね。

  

弘法大師は鉱物博士

 

 水にまつわる数々の伝説は、弘法大師が鉱物学地理学にも詳しかったことを示しています。鉱脈や水脈を発見する術に長けており、事実、四国八十八カ所霊場のほとんどは鉱物資源や水源の豊富な山に位置しています。

 中世の高僧は、希代の文化人学者であったようです。弘法大師の場合は鉱物博士ですね。

 

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弘法さんかわら版   18号(平成15年12月)

 

 皆さん、こんにちは。今年最後の弘法さんかわら版です。早いもので今年も残りわずかとなりました。

 先月24日まで愛知県美術館で「空海と高野山」展が開かれていました。編集部スタッフも見学してきましたが、弘法大師自筆の書や巨大な曼荼羅(まんだら)の見事さに圧倒されました。

 

  守り本尊

 

 来年の干支(えと)は(さる)です。干支にはそれぞれ、開運や厄除けの守護仏である守り本尊が定められています。干支は方角を表すことから、「守り本尊」も方角ごとに決まっていることになります。因みに、申は西南西を示し、「守り本尊」は大日如来です。

 

弘法大師と大日如来

 

大日如来は弘法大師が開いた真言宗の総本尊、つまり最高仏です。「日(=太陽)のように大いに遍く照らす」という意味が込められおり、大宇宙の根源と考えられています。申年の弘法さんの縁日は、大日如来のご加護で賑わいを増すかもしれませんね。

 

仏像は五種類

 

ところで、方角は東西南北とそれぞれの間の八つあることから、「守り本尊」も八つです。種類としては菩薩が五つ、如来が二つ、明王が一つです。

実は仏像の種類は五つあります。菩薩、如来、明王のほかに、古代インドの民間信仰の神々をとりいれた天部という種類、および以上の四種類のいずれにも属さないその他のグループです。最後のグループには、実在した高僧の像も含まれます。

菩薩は大衆を救うお釈迦様、如来は悟りを開いたお釈迦様の化身、明王は悪と闘う天界からの使者です。見た目も違います。菩薩は宝冠を戴いた貴族の姿、如来は髪が盛り上がり一枚衣を半身にまとった姿、明王は激しく憤怒に満ちた表情で武器を携えています。

もっとも、大日如来は例外で、如来ですが菩薩の姿をしています。

 

覚王山の「守り本尊」

 

日本最小の覚王山八十八カ所霊場にも八体の「守り本尊」が鎮座されています。日泰寺本堂東側のB地区の一角で、八体並んで世の中を見守ってくださっています。山門からすぐそばですので、ご自分の干支の「守り本尊」にお参りされてはいかがでしょうか。

 弘法大師の八十八カ所四国遍路、法然上人の二十五霊場巡り、親鸞聖人の二十四輩巡りなど、宗祖・高僧の聖跡を巡ることを祖師巡礼と言います。全国各地にその写しがあり、覚王山は四国遍路の「写し」です。

 巡礼には石仏巡り七福神巡りというものもあります。来年の弘法さんかわら版では、そうした話題もご紹介したいと思います。乞うご期待。

 

除夜の鐘と大日如来

 

さて、いよいよ年末です。今年の煩悩を消すために日泰寺の除夜の鐘を突き、申年の平穏を願って大日如来にお参りしてください。

弘法さんかわら版も次号から三年目に入ります。来年も引続きご愛読のほど、よろしくお願い致します。

 

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弘法さんかわら版   19号(平成16年1月)

 

皆さん、明けましておめでとうございます。今日は「初弘法」です。そして「初かわら版」です。今年も少しでも皆様のお役に立つ話題をお届けしたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

祖師巡礼と「大師」号

 

各宗派の開祖を祖師と呼び、祖師の足跡をたどることを祖師巡礼と言います。

全国各地に多くの祖師巡礼があります。日本最小の覚王山八十八か所霊場巡りは、真言宗の祖師空海の聖跡巡りの「写し」です。

祖師にはそれぞれ諡号(しごう=没後の敬称)がつけられており、「大師」号もそのひとつです。

諡号は勝手に付けられるものではなく、没後に第三者が申請して為政者(主に朝廷)から授かるものです。「大師」号を授けられた祖師は25人または27人と言われています。最も古いのが伝教大師最澄、そして二番目に古いのが弘法大師空海です。最澄と空海は特に高名な六大師に含まれています。

「大師」のほかにも「国師」「聖人」「上人」「三蔵」「禅師」などの諡号があります。

 

 観賢僧正とひげの伝説

 

 空海の諡号授与には金剛峯寺と醍醐寺の座主を歴任した観賢僧正(かんげんそうじょう)という高僧が貢献しています。

 観賢は空海入定(没)後86年目の921年(延喜21年)、醍醐天皇に対して空海に「大師」号を賜りたい旨の申請をしました。観賢の粘り強い交渉のおかげで空海は弘法大師と呼ばれるようになりました。

「大師」号が下賜された後、観賢は弟子の淳祐(しゅんにゅう)を伴って高野山の御廟を訪れました。弘法大師はまるで生きているかのように瞑想し、うっすらとひげがはえていたと伝えられています。

 

本覚大師と弘法大師

 

観賢は当初「本覚大師」という諡号を賜るよう要請していました。「覚」は釈迦を表す「覚王の一字です。

しかし、醍醐天皇が決めた諡号は「仏法を世に広(弘)めた大師」という意味の弘法大師でした。「本覚大師」という諡号は、その後、弘法大師の京都の拠点であった東寺の後継者である益信和尚が賜りました。

  

覚王山日泰寺の涅槃会

 

今年も1年、覚王山日泰寺周辺の四季と史跡をお楽しみください。2月15日は釈迦入滅の日。日泰寺でも涅槃会(ねはんえ)が催されます。涅槃会は釈迦入滅の様子を描いた涅槃図をかけ、釈迦の最後の教えである遺教経(ゆいきょうぎょう)を唱えて遺徳を偲ぶ催しです。子供が参加して団子、餅、あられなどをもらう風習があります。

涅槃会が終わると日泰寺境内はツツジの季節を迎え、4月8日花祭りです。編集部一同も楽しみにしています。

 

今年も頑張ります(編集部) 

 

今年も「弘法さんかわら版」編集部は好奇心旺盛にいろんなお話をお届けできるように頑張ります。どうぞよろしくお願い致します。何か気になる情報やご疑問があれば、編集部までドシドシお問い合わせください。

 

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弘法さんかわら版   20号(平成16年2月)

 

皆さん、こんにちは。弘法さんかわら版も20号を迎えることができました。ご愛読、ありがとうございます。暦の上では立春を過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

 

山門両脇は仁王像?

 

さて、今日も日泰寺の山門を多くの方がくぐられたことと思います。ところで、山門の両脇の像をジックリとご覧になったことはありますか?

寺院の山門は仁王門と言われるものが多く、「仁王門」には仁王像=金剛力士像が置かれるのが一般的です。かわら版17号で、仏像には、@如来、A菩薩、B明王、C天部、Dその他(高僧像など)の五種類あることをご紹介しました。金剛力士は天部に属し、仏法や寺院を護る守護神です。

弘法大師を開祖とする真言宗本山は高野山金剛峰寺です。金剛峰寺にも1705年建立の大門があり、両脇には金剛力士像が仁王立ちしています。

では、日泰寺山門の像は何でしょうか?

 

実は二人のお弟子さん

 

答えはお釈迦様のお弟子さんです。本堂に向かって左に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、右に阿難尊者(あなんそんじゃ)です。

お釈迦様が入滅された後の仏教の普及には、この二人のお弟子さんの功績がありました。

多くの弟子の中で最長老だった迦葉尊者は、お釈迦様の教えが勝手に解釈されることのないように、第一結集(だいいちけつじゅう)という会議を開き、議長として見事に教義をまとめました。このため、迦葉尊者は仏教の第二祖とも言われます。

 一方、阿難尊者はお釈迦さまの従弟(いとこ)で、最も博識の人物であったと伝えられています。お釈迦さまの教えは口伝であったため、多くの弟子が阿難尊者から教義を学びました。そのため、阿難尊者は多聞第一(たもんだいいち)と呼ばれ尊敬を集めました。

 日泰寺には本物の仏舎利(お釈迦様の骨)が祀られていますので、一番弟子の二人がお護りしているということでしょうか。

 

お釈迦さまの八大聖地巡礼

 

 さて、今年のかわら版は、高僧の足跡を辿る祖師巡礼についてお伝えしています。ここ日泰寺周辺には弘法大師の聖跡の写しとして、日本最小の八十八か所霊場があります。

インドにはお釈迦様の聖跡を巡る祖師巡礼もあり、八大聖地巡礼と言われています。聖地のひとつが入滅地であるクシナガラです。日泰寺に祀られている仏舎利は、1898年にクシナガラに近いピプラーワーで発見され、日本に分骨されたものです。

覚王山巡礼、四国巡礼の次は、八大聖地巡礼にも行ってみたいですね。

 

来月は御祥当

 

さて、来月の弘法さん、つまり3月21日は弘法大師の年命日であり、「御祥当(ごようとう)」と呼ばれています。お参りに来られる方も多く、日泰寺が一年で最も賑わう日です。年に一度の特別な日ですので、ぜひご近所やご友人とお誘い合わせのうえ、大勢の方にお出でいただけることを願っています。露店でたくさん買い物をしていただき、ついでにかわら版も是非お受け取りください。

 

 

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