第49号(平成18年7月)
皆さんこんにちは。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしですか。昨年より様々な仏像についてお伝えしていますかわら版。仏像は菩薩、如来、明王、天部の四種類に分けられますが、今月からはそれらのどれにも属さないもの(その他)についてお伝えします。
閻魔大王も仏様
その他の代表格は閻魔大王。「閻魔大王が仏様?」と思われた方も多いかと思いますが、閻魔大王は預修十王生七経という中国のお経に登場する仏様です。日本では、平安時代に源信というお坊さんによって広められました。
閻魔大王はご存知のように、冥界の裁判官。「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」と言われています。亡くなった人は、生前にどのような生き方をしていたかについて、七日毎に閻魔大王を含む十人の裁判官(十王)の審査を受けます。実は、亡くなった後の法事の区切りが七の倍数であるのは、預修十王生七経の教えによります。一回目の審査(初七日)に始まり、七回目(四十九日)で一区切り。七回の審査でだいたいの判定結果が決まります。しかし、その後も、百ケ日、一周忌、三回忌の三回の追加審査があり、合計で十回の審査になります。なお、閻魔大王の担当は区切りの七回目という説と、五回目という説の両方があります。
十三仏信仰
江戸時代になると、亡くなった人の審査はさらに七回忌、十三回忌、三十三回忌の三回分が増えて十三回行われるという考え方が広まりました。裁判官も十三人に増えることになります。しかし、これは何となく三回分増えたのではなく、十三体の仏様が姿を変えて十三人の裁判官として現れたものであるという考え方に基づきます。その十三人の裁判官は、七菩薩(文殊、普賢、地蔵、弥勒、観世音、勢至、虚空蔵)、五如来(釈迦、薬師、阿弥陀、阿閦、大日)、一明王(不動)それぞれの化身と信じられています。このように、姿を変えて現れた元の仏様を本地仏(ほんちぶつ)と言います。
閻魔大王は地蔵菩薩
閻魔大王の本地仏は地蔵菩薩。地蔵菩薩は過去のかわら版(第三十五号)でお伝えしましたように、冥界の六つの世界(六道)をグルグル巡る衆生(人々)を救う菩薩。人々が天界・人間界・修羅界の善道へ行くか、地獄界・餓鬼界・畜生界の悪道へ行くかを見定めます。閻魔大王は、生前に正直な生き方をしたかどうかでその行き先を差配すると言われています。
覚王山十三仏
さて、半径一キロメートル以内に八十八箇所全ての札所が収まる日本最小の四国霊場の「写し」、ここ覚王山霊場にも十三仏があります。日泰寺東側の階段を下ると多くの札所がひしめくB地区。この地区の道路に面した場所に覚王山十三仏があります。石造りの七菩薩、五如来、一明王が並んで立っておられます。それぞれの仏像には一つずつ真言が掲げられています。真言とは「仏様の徳を讃える真実の言葉」という意味。覚王山十三仏の前で真言を唱え、すがすがしい気分でお帰りください。
次回は十二天
さて、次回は方角を司る十二人の仏様の集合である十二天についてお伝えします。愛知県内には大変珍しい十二天像があります。乞う、ご期待。
kobosan-kawaraban kobosan-kawarabankobosan-kawaraban kobosan-kawaraban
第50号(平成18年8月)
皆さんこんにちは。暑い日が続いています。くれぐれもご自愛ください。
かわら版も第五十号となりました。これもお受け取りくださる皆様方のご愛顧のお陰です。ありがとうございます。これからもどうぞ宜しくお願い致します。
さて、仏像は菩薩、如来、明王、天部の四種類と、そのどれにも属さないその他に分けられますが、今月はこれらの混成部隊(?)の十二天についてお伝えします。
方角と時間を司る十二天
その名の通り、十二天は十二の仏様でひとつのグループを構成し、それぞれ方角を司ります。帝釈天(東、四十三号参照)、水天(西)、焔摩天=閻魔大王(南、四十九号参照)、毘沙門天(北、四十五号参照)、伊舎那天(北東、いしゃなてん)、火天(東南、かてん)、羅刹天(南西、らせつてん)、風天(西北、ふうてん)が八方天。これに天地を司る梵天(天、四十七号参照)、地天(地)、時間を司る日天(昼、にちてん)、月天(夜、がってん)が加わって十二天です。
弘法大師とご縁の深い十二天
京都に都が移った平安時代。年始の宮中では国家安泰、五穀豊穣を祈る儀式が行われ、仏教行事として重要だったのが「後七日御修法(ごしちにちのみしほ))」。年始の最初の週ではなく、第二週目の七日間に行ったので「後七日」と言います。弘法大師の発案で始まった行事で、弘法大師縁の京都東寺の長者(ちょうじゃ=住職)が両界曼荼羅・五大尊・十二天の図画を掲げて加持祈祷を行いました。弘法大師が中国から極意を持ち帰った密教において、十二天は特別な存在でした。密教の教師=阿闍梨(あじゃり)となるための儀式=伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を行う道場の守護仏が十二天だったのです。八方位と転地、昼夜を守る十二天。家に祀ると安心できそうですね。
愛知県にある珍しい十二天木像
十二天は屏風などの図画として残っているものが大半。背後に火焔を背負った貴族のような優美なお姿です。一方、十二天の像は大変珍しく貴重です。この稀有な十二天木像が蒲郡市の無量寺にあります。立像を造ったのは立体曼荼羅(四十三号ご参照)とするためだったと言われています。立体曼荼羅は弘法大師が仏教の世界や仏様の役割を人々が理解しやすいようにと考案した言わば立体模型。誰が造ったか、なぜ無量寺にあるのかはよく分かりませんが、一度拝見したいものです。
日泰寺のライバル?蒲郡の無量寺
西浦温泉に近い無量寺は「癌封じの寺」としても有名です。絵馬には人型が描かれており、癌を患っている部分を黒く塗って癌封じ堂に掛けると効果があると言われています。覚王山と同じく四国八十八箇所霊場の「写し」もあります。レンガ造りの霊場は小さく、気軽に歩いて回れます。覚王山の「写し」が日本最小と思っていましたが、強力なライバルかもしれませんね。
次回は五大尊
ところで、十二天とともに「後七日御修法」で祀られる五大尊の中心は不動明王(四十号参照)。無量寺のご本尊が偶然にも不動明王で、地元では「西浦不動」として親しまれています。次回はその五大尊についてお伝えします。乞うご期待。
kobosan-kawaraban kobosan-kawarabankobosan-kawaraban kobosan-kawaraban
皆さんこんにちは。朝晩はすっかり涼しくなりました。季節の変わり目ですので、くれぐれもご自愛ください。さて、先月号では十二体の仏様がひとつになった十二天をご紹介いたしました。今月号では、五体の明王がひとつのセットになった五大尊(=五大明王)についてお伝えします。
明王の中の明王、五大明王
仏像の種類について少しだけおさらいです。仏像は大きく、菩薩・如来・明王・天部の四つ。この中で悟りを開いて人々を教え諭すのは如来。明王は、なかなか言うことを聞かない人々を怒った顔で教育するために如来が姿を変えたものとも言われます。表情が恐ろしいのは「相手を威嚇・屈服させ、力ずくで仏の教えへ導く」という厳しくも思いやりに満ちた父親の顔を表現したものと信じられております。慈悲の怒りに満ちた仏です(第四十号参照)。明王は実はたくさんの種類がありますが、その中でいくつかの明王を一組にして信仰することがあります。十大明王、八大明王という選び方もありますが、最も選りすぐりなのは五大明王。多くの明王の中でも中心的役割を担っている五人の明王です。
中でもリーダー格は不動明王。いつも中心に鎮座します。その東に降三世明王(ごうさんせみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)が配置されます。五大明王は、密教の大成者である不空の「仁王護国般若波羅蜜」というお経に出てくるのが始まりと言われております。古い時代は、十二天と同じように、皇室や貴族が鎮護国家を祈って行う後七日御修法(ごしちにちのみしほ)に用いられておりました。時代が下るにつれて、民衆にも普及し、無病息災や利益増進などの祈願をされるようになりました。
ちなみに「明」というのは、もともとは知識・学問を意味します。学を極め、神秘なる真実の言葉(=真言)を身に付けた人を「持明者(じみょうじゃ)」と言います。さらにその中でも特に優れた者を、敬意を込めて明王と呼びます。そこから「明」を唱える仏そのものを「明王」と呼ぶようになったそうです。
国宝の五大明神絵画
この地方で最も有名な五大尊像は岐阜県揖斐郡大野町の来振寺(きぶりじ)にあるもの。国宝に指定されております。この五大尊像には、金剛夜叉明王の代わりに鳥枢沙摩明王が描かれていることも特徴です。また、来振寺には弘法大師御影図を始め絵画や彫刻など、多くの歴史的な遺産が収められています。思い切って遠出をされる際には、ぜひお訪ねになってはいかがでしょうか。
東海不動三十六札所
さて、日本各地には様々な霊場、史跡巡りがあります。もちろん、最も有名なのは四国八十八箇所巡礼。さすがに、四国八十八箇所ほどの人気はありませんが、この東海地方には、不動明王信仰の三十六不動尊霊場があります。皆さんご存知でしたでしょうか。愛知、三重、岐阜の三県にまたがって、不動明王に縁のある三十六箇所を回る巡礼です。愛知県にあるのは第一番から二十二番まで。そのうち名古屋市には、第六番から十五番の十ヵ所があります。
十番札所は大須観音。もちろんご本尊は観音菩薩ですが、その脇侍として不動明王があります。先月号で紹介いたしました癌封じ寺の西浦不動こと無量寺(蒲郡市)は第十九番札所です。
そして、十四番札所は八事の不動さんの名で親しまれるには不動山大学院(天白区元八事)。ここは寛永十八年(一六四一年)に備中出身の僧善能法印がこの地に草堂を結んで、青面金剛(=しょうめんこんごう)を奉安したのが起こりとされております。
覚王山の不動明王
覚王山八十八箇所霊場で不動明王にご縁がある札所は四つ。中でも興味深いのは第三十七番札所の藤井山岩本寺(ふじいさんいわもとじ)。五大明王ではないのですが、何と五体のご本尊があります。不動明王の他に、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩です。なぜ五体もご本尊があるかというと、弘法大師が土佐の窪川に五つの寺を建てそれぞれにご本尊を収めたため。戦火で消失し、五寺を統合して岩本寺として再建された時に五体のご本尊も集められたそうです。
一度のお参りで五体の仏様が同時に拝める覚王山八十八箇所の岩本寺は奉安塔の裏のE地区にあります。ぜひお出かけになってみてはいかがでしょうか。
次回は青面金剛
来月号は八事の不動さんにも奉安されている、青面金剛についてお伝えします。文字通りの青い顔に、三匹の猿を従えたユニークな仏様です。乞うご期待。
皆さん、こんにちは。朝晩は肌寒さを感じる季節になりました。くれぐれもご自愛ください。昨年から様々な仏像についてお伝えしていますかわら版。今月は菩薩・如来・明王・天部のいずれにも属さないその他の四回目。青面金剛(しょうめんこんごう)について調べてみました。
寿命を縮める三匹の虫
青面金剛は、大陸渡来の道教と日本固有の神仏習合から生まれた庚申講という信仰と関係します。道教の教えによると、人のからだには彭候子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・命児子(めいこし)という三尸(さんし=三匹の虫)が潜んでいます。三尸は六十日の一度の庚申の日、人が眠っている間にからだを抜け出し、天帝にその人の日頃の行いや悪事を密告。その罪状によって寿命を縮められてしまうそうです。そこで庚申の日は三尸がからだから抜け出さないよう、眠らずに身を慎む風習が庚申講として広まりました。庚申講は庚申侍、宵庚申とも言います。なお、道教の暦は十二支の組み合わせによって作られており、六十日で一巡。庚申はかのえ・さるのことです。
青面金剛と三匹の猿
庚申講は徐々に日本独自のかたちに進化。仏教の陀羅尼集経(だらにじっきょう)というお経の青面金剛咒法(しょうめんこんごうじゅほう)という一節に三尸を取り除く方法が記されていたことから青面金剛がご本尊となりました。青顔四臂の憤怒の形相で病魔悪鬼=三尸を追い払います。
因みに庚申の「申」は十二支の「申=猿」。そこで、人の悪行を天帝が見ざる、言わざる、聞かざるという語呂合わせから三猿が青面金剛の従者となり、庚申塔には三猿が彫られました。余談ですが、神道の庚申講でも語呂合わせから猿田彦を祀ります。
大衆文化に発展した庚申講
日本三庚申は大阪四天王寺、京都八坂、東京入谷(今は浅草寺)の庚申堂。いずれも伝教大師最澄を開祖とする天台系寺院。天台宗は庚申信仰を積極的に唱え、その普及に貢献しました。
一方、名古屋の青面金剛と言えば八事の大学さん。正式名称は不動山大学院。学問修行のお寺です。何を学ぶかといえば弘法大師空海が開いた真言密教。三百年以上前に善能法印という僧が建立し、青面金剛をご本尊としました。脇侍には先月号で紹介しました五大力(五大明王)。東海三十六不動尊霊場のひとつでもあります。
道教に由来する庚申講ご本尊の青面金剛。日本では伝教大師が普及させ、弘法大師縁のお寺にも鎮座。神道にも庚申信仰があることを考えると、庚申講は実に大衆的、日常的な文化と言えます。
仏教におけるご本尊、青面金剛も実は身近な存在。だからこそ、道祖神・七福神などと同じ垂迹(すいじゃく)部=その他に分類されます。
江戸時代になると青面金剛と三猿を配した庚申塔が全国各地に建てられました。戦前は至るところで見られたそうですが、戦災や戦後の区画整理などで失われ、今ではすっかり稀有な存在。覚王山周辺でも見つけたら編集部までお知らせください。
覚王山の青面金剛
日本最小の四国霊場の「写し」、覚王山八十八箇所霊場の中で青面金剛を祀っているのは第七十八番札所、郷照寺の庚申堂。もちろん、三猿も青面金剛像の足元にいます。こちらの青面金剛像は病気を取り除くご利益があり、毎月多くの方が札所を訪れます。郷照寺の場所は奉安塔奥のF地区。本堂参拝のお帰りに一度お立ち寄りください。
次回は賓頭盧さま
次回は賓頭盧(びんずる)についてお伝えします。撫でれば病気が治る撫で仏として人気があります。乞うご期待。
kobosan-kawaraban kobosan-kawarabankobosan-kawaraban kobosan-kawaraban
第53号(平成18年11月)
皆さんこんにちは。もうすぐ冬本番です。くれぐれもご自愛ください。さて、昨年来、かわら版ではいろいろな仏像について勉強しています。菩薩・如来・明王・天部に続き、夏からはいずれにも属さないその他の仏像編。今月は賓頭盧(びんずる)について調べてみました。
実在の人物=祖師像
仏教では実在の高僧(祖師)像も信仰を集めることがあります。もちろん弘法大師もそのひとり。一キロメートル四方に八十八箇所が集まる日本最小の四国霊場の「写し」、ここ覚王山霊場の三番札所の傍にも弘法大師の石像があります。弘法大師の誕生から入定までの年齢ごとの彫像がある歳弘法にも参拝客が絶えません。
日泰寺山門両側の木像は仁王様ではありません。迦葉尊者(かしょうそんじゃ)と阿難尊者(あなんそんじゃ)。いずれも実在の人物。お釈迦様の十大弟子です。迦葉尊者はお釈迦様の入滅後、教団を率いた人で頭陀第一(ずだだいいち)とも呼ばれます。弟子の中で最も知識が豊富だったのが阿難尊者。別名、多聞第一(たもんだいいち)です。
賓頭盧は十六羅漢の一番弟子
お釈迦様の高弟の表現の仕方もいろいろあります。お釈迦様のもとに集まった最初の十六人の高弟を十六羅漢と呼びます。羅漢は仏法修行者に対して尊敬の念を込めて呼ぶ称号。お釈迦様の入滅後にその教えを整理した弟子たちは五百羅漢と呼ばれます。
さて、賓頭盧は十六羅漢の一番弟子。全国各地の賓頭盧像の中で最も有名なのは長野の善光寺。自分が患っているところと同じところを撫でると病気が治ると信じられており、撫で仏として大変人気があります。柔和な表情をした撫で仏。参拝客が撫でるのでピカピカになっているそうです。
四つの善光寺
ところで、善光寺は全国に四つあります。長野の善光寺に次いでよく知られているのは飯田の元善光寺。元善光寺はその名の通り、長野の善光寺のご本尊が元々奉安されていたお寺。六○二年、本多善光という人が麻績の里(おみのさと=現在の長野県飯田市)に大阪難波にあった阿弥陀如来(第三十九号ご参照)をお迎えしました。だからその名をとって善光寺。ご本尊が長野の善光寺へ移されてから飯田のお寺は元善光寺と呼ばれるようになりました。ご本尊様も名残惜しかったのでしょう。「毎月十五日間は、麻績の里に帰り来て衆生を化益せん」と言い残されたそうです。ご本尊は今でも元善光寺と善光寺の間を月の半分ずつ行き来されていると信じられています。したがって、両方お参りしてようやくお参り完了。「一度詣れよ元善光寺、善光寺だけでは片詣り」と言われています。もちろん、賓頭盧像は元善光寺にもあります。
愛知県にも善光寺
あとのふたつは甲府善光寺(山梨県)と祖父江善光寺(愛知県)。祖父江善光寺は別名、善光寺東海別院。一五八二年、織田信長が善光寺のご本尊を携えて祖父江に立ち寄られたところ、その場所で一本の蓮の茎から二つの花が開花。ご本尊のご霊力と言われました。この奇端に感銘を受けた旭住上人という僧が長野善光寺にご本尊を勧請。明治四十二年、東海別院が建立されました。山号が双蓮山、寺号が善光寺です。
善光寺も日泰寺も無宗派寺院
善光寺は仏教が各宗派に分かれる前に建立されたことから無宗派。日泰寺も無宗派。日泰寺はタイ国王から寄贈された本物の仏舎利(お釈迦様の骨)を祀るために十九宗派の共同寺院として建立されました。善光寺と日泰寺の意外な共通点ですね。
次回は三宝荒神
次回は三宝荒神についてお伝えします。仏教の仏・法・僧の「三つの宝」を司る仏様です。乞うご期待。
第54号(平成18年12月)
皆さんこんにちは。今年も残りあとわずか。お風邪などひかぬよう、くれぐれもご自愛ください。昨年始めよりいろいろな仏像についてお伝えしてきましたかわら版。このシリーズは今回でひと区切り。菩薩・如来・明王・天部のどれにも属さないその他の仏像の締めくくりは三宝荒神(さんぽうこうじん)です。
仏教の三つの宝と三宝荒神
仏教は仏・法・僧の三つの宝=三宝によって成り立っています。仏は悟りを開いた者、つまりお釈迦様そのものです。法はお釈迦様の教え。人の個性に応じて諭したことから、多様な教えがあるという意味で八万四千の法門があると言われています。そして、僧はお釈迦様の教えを伝える人たちです。仏教を学ぶことは三宝に従うこと。したがって、仏教を信心することを三帰依とも言います。その三宝を護るのが三宝荒神。三宝に逆らう者を戒めるために怒った顔(憤怒相)をしており、弓矢などの武器を携えます。
また、火を操ることから竈(かまど)の神としても信仰されており、転じて台所の守護、さらには家内安全のご利益があるとも信じられています。
三宝荒神の納鶏
名古屋の三宝荒神といえば大須の天寧寺。織田信長がわが子の成長を祈願して三宝荒神を祀り、守鶏絵馬を奉納したことが縁起です。鶏は夜に鳴かないことから子供の夜泣き止めのご利益があると言われています。
天寧寺名物は名古屋の郷土玩具のひとつ「守り土鶏」。「守りおんどり」と「守りめんどり」の雌雄一対です。大須にお出かけの際には一度お立ち寄りください。
織田家は覚王山のご近所さん
ところで、織田家はご当地、覚王山界隈に縁が深いのはご存知でしょうか。信長の父・信秀の居城は覚王山から東に五百メートルほどの末森城。信秀が駿河(静岡)の今川氏の侵攻に備えて築きました。城跡は城山八幡宮になっています。末森城は次男・信行(信長の弟)に譲られ、これも兄弟喧嘩の原因になりました。信行の死後、末森城は廃城。地名もいつしか末森から末盛へ。信秀と信行の菩提寺は本山・桃巌寺です。縁日の帰りに散策してみてください。
来年の守り本尊は阿弥陀如来
さて、来年の干支は亥。かわら版第四十二号でもお伝えしましたように、干支にはそれぞれ守り本尊がついています。十二支に対して守り本尊は八つですから、同じ守り本尊が続くことがあります。亥の守り本尊は今年(戌)と同じ阿弥陀如来。
ここ覚王山霊場には、守り本尊が勢ぞろいしている場所があります。本堂手前東の階段を下りたB地区の中にあります。是非お立ち寄りください。衆生を慈悲の心(光)で照らす阿弥陀如来。光と長寿の仏様(第三十九号をご参照)とも言われます。覚王山霊場C地区周辺には、阿弥陀如来をご本尊とする名刹がいくつもあります。尋盛寺(浄土宗)、台観寺(天台宗)、相応寺(浄土宗)などです。台観寺には、弘法大師作と言われる大黒天も祀られています。
来年は覚王山周辺名刹シリーズ
さて、かわら版も来月から足かけ七年目に入ります。来月号からは覚王山周辺の寺社仏閣、名刹シリーズをお伝えしたいと思います。乞うご期待。それでは、良いお年をお迎えください。