第55号(平成19年1月

皆さん、あけましておめでとうございます。かわら版も六年目に入りました。今年もご愛読、よろしくお願いいたします。今年のかわら版は覚王山周辺の寺社仏閣、名刹シリーズ第一回は尋盛寺(じんせいじ)です。

(*)文中のかっこ内は参考号です。

京都・知恩院の末寺

 尋盛寺は日泰寺奉安塔の東にある浄土宗のお寺。浄土宗の総本山は、高名な京都・知恩院尋盛寺は知恩院の末寺になります。ご本尊は阿弥陀如来(第四十二号)。先月号でもお伝えしましたように、阿弥陀如来は今年の守り本尊です。是非、ご参拝ください。
 浄土宗の開祖は
法然。誰でも阿弥陀如来に帰依することによって極楽浄土に行くことができると説きました。

京姫と三葉葵

 本堂内の仏具には三葉葵の紋がついています。ご存じのとおり、三葉葵は徳川家の家紋水戸黄門(水戸藩主徳川光圀)の側近、助さん、格さんが、「えぇ~い、頭が高い。この紋どころが目に入らぬか」と言って掲げる印籠に刻まれているあの紋です。実は、尋盛寺の仏具は徳川家康公の孫である京姫(法名普峯院)が寄贈したもの。そのため、徳川家一門だけが使用を許されていた三葉葵が刻まれているのです。

家康公の「清洲越し」

 ところで、尋盛寺は元々尋盛上人清須(清洲)に建てたお寺。「清洲越し」によって、名古屋に移ってきました。
「清洲越し」とは、江戸幕府ができて間もない一六一〇年頃の清洲から名古屋への大がかりな引っ越しのことを指します。それまで、織田信長公が築いた清洲城周辺がこの地方の中心でしたが、家康公が海陸の交通が便利な名古屋に居城を築城。これにあわせて、武家屋敷や寺社仏閣、町家などが一斉に引っ越し。以来、現在の名古屋城周辺が尾張徳川家の城下町として発展することになりました。「清洲越し」で移転したお寺は百十と言われており、尋盛寺もそのひとつです。名古屋城の初代藩主は家康公の九男、徳川義直そして、義直公の娘が京姫です。

「清洲越し」以来の山門

 「清洲越し」の際に尋盛寺は白川に移りましたが、一九四二年(昭和一七年)白川公園の造営に伴い覚王山に再度移築されました。もっとも、尋盛寺の山門は「清洲越し」以来のもの。一見の価値ありです。
  尋盛寺には印鑑供養の印章塚もあります。印鑑は持ち主の分身という考え方から、使わなくなった印鑑を丁重に供養してくれるそうです。

平安仏教と鎌倉仏教

 ところで、尋盛寺は浄土宗。来月以降にご紹介する名刹は、曹洞宗、黄檗宗、臨済宗など様々です。今年のかわら版では、これらの様々な宗派が、弘法大師空海真言宗伝教大師最澄天台宗とどのような関係にあるのかも勉強してみます。平安時代に成立したのが真言宗と天台宗。平安仏教と言います。その後、鎌倉時代に主に天台宗から様々な宗派が誕生し、鎌倉仏教と呼ばれています。
 一方、真言宗からは新しい宗派はあまり誕生せず、脈々と現在まで続いています。ご本尊は大日如来(第三十六号)。阿弥陀如来を含め、全ての仏様は大日如来の化身と説きます。

来月は相応寺

 来月は相応寺をご紹介します。やはり浄土宗ですが、徳川義直公に関係の深いお寺です。乞うご期待。



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第56号(平成19年2月)

 皆さん、こんにちは。暖冬とはいえ、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。覚王山周辺の寺社仏閣、名刹を紹介しています今年のかわら版。先月号では尾張徳川家の初代藩主・徳川義直公(家康公の九男の娘、普峯院に縁の深い尋盛寺についてお伝えしました。今月は義直公の母君に縁のある相応寺です。

尾張徳川家藩祖の母君の菩提寺

 相応寺は日泰寺本堂東側の階段を下って姫ヶ池通を渡ったところにあります。尋盛寺と同じ浄土宗です。
義直公が母君・
お亀の方を弔うために寛永二十年(一六四三年)に建立。お亀の方は家康公の側室で、家康公の死後、相応院と名を改め、これが寺号となりました。たくさんの子宝に恵まれたことに因んで山号宝亀山藩祖の母君の菩提寺ということで、尾張徳川家歴代藩主の厚い庇護を受けました。

創建当時のままの威風

 相応寺のもともとの建立地は名古屋城近くの山口町(東区)区画整理のために昭和十年に覚王山に移築されました。本堂、山門、鐘楼は創建当時のまま本堂と山門の義直公直筆相応院の墓碑は本堂の隣にあります。また、移築当時は京都清水寺を模した立派な舞台があったそうですが、残念ながら後に撤去されました。

乱世が生んだ浄土教信仰

 浄土宗ですから、ご本尊は尋盛寺と同じ阿弥陀如来西の彼方に極楽浄土という理想郷があり、そこには阿弥陀仏がいて衆生を救ってくれるというのが浄土教、阿弥陀仏信仰です。
 浄土教はインド、中国で栄えた後に日本に伝来。日本では法然上人の開いた浄土宗、弟子・親鸞聖人が開いた浄土真宗、孫弟子・一遍上人の開いた時宗などが浄土教にあたります。
 先月号で弘法大師空海真言宗伝教大師最澄天台宗平安仏教、その後、主に天台宗から誕生した様々な宗派を鎌倉仏教と呼ぶことをご紹介しました。
 平安時代末期は公家の衰退、武家の台頭による乱世。僧兵も暴れ、天台宗の本山比叡山では、延暦寺(山門派)山法師三井寺(寺門派)寺法師が対立。奈良興福寺の僧兵も奈良法師と呼ばれ、仏教も荒廃。こうした世情に嫌気して、人々の間で南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば誰でも救われる浄土教信仰が広がりました。

札所のご本尊ナンバーワンは・・・?

 ところで、四国八十八ヶ所霊場の中で阿弥陀如来をご本尊にしているのは九ヶ所真言宗のご本尊である大日如来六ヶ所、仏教の開祖・釈迦如来五ヶ所よりも多いのは意外です。ご本尊の数で一番多いのは薬師如来なんと二十三ヶ所です。病気で悩んでいる方が巡礼に行くことが多いこととも関係しているかもしれませんね。

義直公直筆の浄土三部経

 浄土宗の経典は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つ。浄土三部経と呼ばれます。極楽浄土の世界や念仏の大切さを説いています。相応寺の寺宝は義直公直筆の浄土三部経です。
 その他にも相応寺には見所がたくさん。お茶を点てる茶筅(ちゃせん)を供養する茶筅塚また、家康公御用達の鋳物師・林道春作ったなど、一見の価値ありです。もちろん、藩祖の母君、相応院の画像もあります。

来月は大龍寺

 来月は大龍寺をご紹介します。お釈迦様の五百人のお弟子さん(五百羅漢)を祀るお寺です。乞うご期待。


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   第57号(平成19年3月)

 皆さん、こんにちは。今日は正御影供(しょうみえく)弘法大師空海の御命日です。覚王山周辺の寺社仏閣、名刹を紹介しています今年のかわら版。今月号は大龍寺(だいりゅうじ)です。

*文中( )内の数字は参照号

本所五百羅漢寺の「写し」

 大龍寺は姫ヶ池通の東側、仏舎利を納めた奉安塔の奥にあります。尾張徳川藩・三代藩主綱誠の命を受けて喝伝和尚が出来町(東区)に創建一七二五年しました。
 その後、
指月和尚が当時江戸で大人気の五百羅漢寺写しとして羅漢堂を造営一七七八年堂内に安置される五百羅漢は、名古屋城築城時の犠牲者を供養するために作られ、一七八○年に開眼しました。
 本尊の
釈迦牟尼像建中寺の聞誉上人が寄進一七八二年一九二七年に覚王山に移築。今日の姿になりました。

第一結集の五百羅漢

さて、羅漢とはお釈迦様お弟子さんたちの呼称。最初の十六人の弟子を十六羅漢(第五十三号)、お釈迦様入滅にその教えを整理するための会合=第一結集(だいいちけつじゅうに集まった五百人のお弟子さんを五百羅漢と呼びます。
 江戸時代には
五百羅漢参拝が大流行。その中心が本所天恩山五百羅漢寺その後は目黒に移転しましたが、綱吉、吉宗など、歴代将軍の庇護を受けてたいへん繁栄しました。その賑わいに触発されて指月和尚写しを造営。当時の様子が尾張名所図会に描かれています。大変立派なつくりですね。
 江戸時代には
四国霊場参拝も大人気。ここ覚王山にもご存知のように八十八箇所霊場写しがありますが、大龍寺の羅漢堂も「写し」とは知りませんでした。

明(中国)風の独特の風情

 大龍寺は東海地方には珍しい黄檗(おうばく)宗(みん=中国)の高僧、黄檗山萬福寺(福建省)の隠元(いんげん)が来日一六五四年将軍・家綱公の庇護を受け、京都・黄檗山萬福寺ができました一六六一年大龍寺も万福寺の末寺です。
 
坐禅によって悟りを得て仏になること見性成仏を目指すのが禅宗日本には禅宗五家のうち臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗があります。当初は臨済正宗黄檗派と称し、一八七六年、独立して黄檗宗になりました。
 黄檗宗は
明(中国)風の読経や鳴り物を使う儀礼が特徴的。黄檗の梵唄(ぼんばい)と呼ばれます。造りも独特の趣き。城のような本堂、赤壁など明風の建築様式で、赤寺南京寺と呼ばれるお寺もあります。
 大龍寺本堂も、入母屋屋根に
鯱(しゃち)が乗り、城櫓(やぐら)を思わせる独特の風情。そのためか、覚王山への移築に一年半もかかったそうです。
 
弘法大師空海真言宗のご本尊は大日如来。一方、黄檗宗のご本尊は特定されておらず、お寺ごとにそれぞれのご本尊があります。

迷宮のような羅漢堂

 大龍寺の羅漢堂は、本堂左右羅漢堂の三つで構成される複雑な構造。さながら迷宮のようです。五百羅漢を一度に見渡すのではなく、回廊を順路に沿って歩き、参拝者に羅漢の数の多さを実感してもらうためにこうした構造になっていると言われています。

来月は信長公

 来月は覚王山縁(ゆかり)の戦国武将、織田信長公に関わりの深い法華寺をご紹介します。東区にある日蓮宗のお寺です。乞うご期待。


第58号(平成19年4月)

 皆さん、こんにちは。覚王山周辺の寺社仏閣、名刹を紹介しています今年のかわら版。今月号は法華寺(ほっけじです。

信長と法華寺

 覚王山に縁の深い戦国武将と言えば、ご存知織田信長織田家の城は覚王山から東へ五百メートルの末森城現在の城山八幡宮がある場所です。信長の父、信秀が築きました。その信長縁(ゆかり)の名刹が東区東桜の法華寺信長の祖先、織田常勝が建てた日蓮宗のお寺です。

 各地の寺社と対立をしていた信長を議論で打ち負かしたのが法華寺五世の日陽和尚日蓮宗を宗門破却仏教からの追放)しようとしていた信長を理を尽くして説得。信長との論争は安土宗論と言われています。スゴイ和尚さんですね。

信長と松坂屋

 さて、一度は天下を取った信長。しかし、本能寺の変明智光秀の奇襲を受けて四十九歳の生涯を閉じました。実は本能寺も日蓮宗のお寺。信長の供養塔もあります。
 本能寺の変の折、
清洲城で留守居役をしていた家臣が伊藤蘭丸祐道(らんまるすけみち)信長に固い忠誠を誓っていた祐道は信長以外の武将に仕えることを好まず、商人となって呉服屋を開業。これがいとう呉服店=松坂屋の前身です。

信長譜代の家臣の子孫と楊輝

 その祐道から数えて十五代目の子孫、伊藤次郎左衛門祐民(じろうざえもんすけたみ)=松坂屋の初代社長が大正七年に建てた別荘がご存知、楊輝荘(ようきそう)日泰寺境内の東側にあります。祐民は名古屋商工会議所の初代会頭も務め、楊輝荘は名古屋政財界の社交場として大変に賑わいました。
 楊輝荘の中心は
聴松閣熱心な仏教徒であった祐民は、何度も国内外に仏跡巡拝の旅に出かけました。祐民の巡拝に同行したインド人、ハリハランが描いた聴松閣の仏教壁画は一見の価値があります。

「一乗」という「乗り物」

 ところで、平安時代に開花した二大宗派が真言宗天台宗弘法大師空海伝教大師最澄が開祖です。真言宗の経典は大日経金剛頂経一方、法華経は天台宗の教えとして受け継がれました。
 天台宗から派生した
鎌倉仏教六宗派の中で、法華経をさらに深く極めたのが日蓮宗開祖はその名のとおり日蓮安房(千葉県)の漁民の子として生まれ、全国の寺社を巡拝して仏法を学び、法華経こそが正しい仏の教えと確信するに至って日蓮宗を起こしました。
 法華経は
南無妙法蓮華経というお題目でよく知られています。昔から諸経の王と呼ばれ、アジアで最も普及した経典と言われています。

 自分だけ悟りの彼岸に渡る声聞乗、縁覚乗他者も一緒に彼岸に導く菩薩乗法華経はいずれも否定せず、三乗大乗という一乗に帰すると教えます。ちょっと難しいでしょうか。要するに、お題目を唱えることで一乗という乗り物に乗って誰もが悟りの彼岸に渡る=仏になれることを教えます。
 鎌倉時代は飢饉や大地震が相次ぎ、人心が荒廃した時代。日蓮は
立正安国論を著し、法華経の教えに基づく政治こそが国を救うと幕府に上申。幕府に睨まれた日蓮は三度も流罪となりましたが、その主張を曲げず、不撓不屈の生涯を送りました。

来月は台観寺

 来月号は天台宗台観寺ついてお伝えいたします。法華経についても、もう少し勉強させて頂きます。


第59号(平成19年5月)

 皆さん、こんにちは。新緑が目にまぶしい季節になりました。覚王山周辺の寺社仏閣、名刹を紹介しています今年のかわら版。今月号は台観寺(たいかんじ)です。

*文中( )内の数字は参照号

行基作の阿弥陀如来

 台観寺は日泰寺本堂の東、姫が池通を渡った先、三月号(五十七号)でご紹介した大龍寺の隣にあります。ご本尊は光と長寿の仏様である阿弥陀如来(三十九号)。行基作と言われています。
 このご本尊、もとは三重県桑名郡の円明寺にあったそうですが、お寺が水害で流失。ご本尊を守っていた名古屋在住の堀栄七氏が大正八年に覚王山に本堂を建立。ご本尊を収めました。堀栄七氏の法名は台観寺号はこれに因んで台観寺になりました。

弘法大師作の大黒天

 台観寺は、弘法大師作大黒天が祀られていることでも有名です。大黒天は七福神の一人(四十五号)。財福神とも呼ばれ、財産の神様として広く知られていますが、知恵の神様という一面もあるそうです。
 甲冑に身を固め、左手に
宝棒、右手に知恵袋を持っています。台観寺の大黒天は知恵さずけのなごや大黒として親しまれております。よく考えてみれば知恵も人間にとっては財産みたいなもの。そういう意味かもしれませんね。

法華経の「華」は蓮の花

 台観寺は覚王山周辺には数少ない天台宗のお寺。天台宗の開祖は伝教大師最澄真言宗の開祖、弘法大師空海と同じ時代に活躍。最澄、空海は日本仏教の両巨頭です。
 最澄、空海は偶然にも同じ遣唐使船に乗って唐(中国)に留学。帰国後にそれぞれ天台宗、真言宗を開きました。
 天台宗の経典は
法華経仏教の経典はもともとサンスクリット語いう言葉で書かれていました。法華の語源はサッダルマ(=正しい教え)プンダリーカ(白い蓮の花)。蓮の花は「咲いたときから実を結んでいる」ことから、人は誰でも生まれながらにして仏性(ぶっしょう=実=慈悲の心)を備えているという考え方を表現しているそうです。
 法華経は
正法蓮華経、妙法蓮華経、添品妙法蓮華経の総称。南無妙法蓮華経というお題目を唱えることで仏性に従った日常生活を目指します。

「空」と「久遠実成」

 ちょっと難しくなってきましたが、もう少し勉強してみます。法華経は全部で二十八品(ほん)の文章から成り立っています。前半十四品を迹門(しゃくもん)後半十四品を本門(ほんもん)と呼びます。
 迹門のテーマは
「空」(くう)全てのものは縁起よって成り立っているに過ぎず、色も形もない「空」の存在。そうした本当の知恵を学び、物ごとにこだわらない生き方を説いています。 本門のテーマは久遠実成」(くおんじつじょう)お釈迦様は悟りを開いたのではなく、もともと仏であったという教え。人は生まれながらにして仏性を持っているということと関係がありそうですね。

聖徳太子と法華経

 日本への仏教伝来は西暦五三八年そして、日本書記には六○六年聖徳太子法華経の講義を行っていたと記されていますので、ずいぶん古くから親しまれた経典のようです。

来月は桃厳寺

 さて、来月も四月号(五十八号)に続いて覚王山縁(ゆかり)の戦国武将、織田信長公に関わりの深いお寺をご紹介します。本山にある曹洞宗のお寺、桃厳寺です。乞うご期待。


  第60号(平成19年6月)

 皆さんこんにちは。おかげさまでかわら版は今月で満五年、第六十号を迎えました。ご愛読いただいている皆様に心より感謝申し上げます。覚王山周辺の名刹を紹介している今年のかわら版。今月は本山の桃巌寺(とうがんじ)です。

(*)カッコ内は参照号

織田信秀の菩提寺

 織田家の居城、末森城(五十八号)。織田信長の父、信秀が日泰寺の東、現在の城山八幡宮の場所に築いたお城です。その信秀の菩提寺が泉龍山桃巌寺本山にある曹洞宗のお寺です。信長の弟、信行が父を弔うために建立。もともと末森城のすぐ南にありましたが、一七一五年に現在地に移転。寺号は信秀の戒名、桃巌に因みます。
 弁天像(眠り弁天)を祀っているため、別名、名古屋弁天、または東山弁天とも言います。眠り弁天はお正月しか拝観できません。弁天とは七福神のひとつ、弁財天のこと。商売繁盛、芸事の神様として信仰されており、桃巌寺にもご商売をされている方や芸能人が参拝するそうです。本堂には参拝した芸能人の写真がたくさん飾ってあります。

威風堂々、名古屋大仏

 桃巌寺のもうひとつ名物は名古屋大仏台座を含めて高さ十五メートルもある大きな仏像です。大仏の周囲を十一頭の象が囲んでいます。昭和六十二年、大仏師の長田晴山氏が制作。名古屋オリンピックにあわせて開眼する予定だったそうです。残念なことに名古屋オリンピックは幻に終わり、名古屋大仏の威風を世界に発信する機会も幻となりました。

曹洞宗の基本は座禅

弘法大師空海が開いた真言宗では、密教の教義(教相)作法(事相)の両方を学ぶことによって悟りに至ると教えられています。一方、桃巌寺の曹洞宗が重視するのは座禅悟りを開くためには、読経や礼拝ではなく、ただひたすら座禅を行うべきであるという只管打坐(しかんたざ)の教えを基本にしています。
 開祖は道元比叡山天台教学(五十九号)を学び、中国(唐)に留学。帰国後、菩提樹の下で座禅をくんで悟りを開いたお釈迦様に倣えと説き、曹洞宗を開きました。

四諦八正道

 座禅によってお釈迦様が開いた悟りは、ひと言で言えば苦を滅すること生きることは基本的には苦であり、それを克服するために、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)四諦(四つの真理)を説きました。
 苦諦は苦を知ること、集諦は苦の原因を明らかにすること、滅諦は苦を取り除くこと、道諦は苦を取り除く方法のことです。その方法としてお釈迦様が示されたのが八正道(はっしょうどう)正しく物事を見る正見(しょうけん)、正しい道理を考える正思(しょうし)、正しい言葉を語る正語(しょうご、正しい行いをする正行(しょうぎょう)、正しい生活をする正命(しょうみょう)、正しい努力をする正精進(しょうしょうじん)、正しい道を念ずる正念(しょうねん)、精神を安定させる正定(しょうじょう)の八つです。
 お釈迦様の教えを、入滅後に書き記したのが法華経四諦八正道は法華経の真髄のひとつと言えます。

次回は善篤寺

 来月号では善篤寺についてお伝えします。桃厳巌と同じく曹洞宗のお寺です。