第68号(平成20年2月


皆さん、こんにちは。まだまだ寒い日が続きます。ご自愛ください。弘法大師の生涯をお伝えする今年のかわら版。今月は運命の出会いです。

★ 留学生・空海と還学生・最澄

私度僧として修行後、空海は延暦十六年(七九七年)東大寺戒壇院で受戒。三十一歳正式な僧侶となりました。当時の都、南都(奈良)の有力豪族は空海母方の家系大伴氏。このことも東大寺で受戒するご縁になったようです。

同年、密教を究めるために入唐を決意。二十年間帰国禁止の私費留学生=留学生(るがくしょう)となりました。

肥前国田浦(長崎県平戸市)から出航した遣唐使船は四隻。当時の渡航は命がけ。四隻のうち二隻は沈没。残った二隻の一隻に遣唐使と空海。もう一隻には比叡山延暦寺の最澄二年間だけの還学生(げんがくしょう)=国費留学生として乗船。運命的な出会いですが、この旅路では無名の空海と既に高名であった七歳年長の最澄との接点はあまりなかったようです。

★ 日本三筆の片鱗

空海の船は嵐で海路をはずれ予定より南方の福建省に漂着。現地の役人閻済美(えんさいび)に海賊と疑われた一行は上陸を許されません。

途方に暮れた遣唐使藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)に代わり、空海が閻済美と筆談。ここで空海の漢学・漢詩の素養や後に日本三筆と讃えられる達筆が力を発揮。空海の文章に圧倒された閻済美は礼を尽くして一行を受け入れたそうです。

奇遇にも日本三筆のもうひとり、橘逸勢(たちばなはやなり)も一行の一員。因みに最後のひとりは嵯峨天皇。後に空海の人生に大きく関わります。

★ 青龍寺の恵果和尚

中国大陸二千四百キロメートルを縦断する五十日間の南船北馬の旅の末、十二月二十三日に長安に到着。

空海は翌年、密教を束ねる青龍寺恵果(けいか)和尚と面会。驚いたことに恵果和尚は「おまえが来るのを待っていた」と言ったそうです。

恵果和尚は七人の高弟や千人を超える弟子を飛び越して空海に密教の奥義を伝授。八月、空海は結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け伝法阿闍梨遍照金剛(でんぽうあじゃりへんじょうこんごう)となりました。

恵果和尚は空海のために曼荼羅、独鈷(どっこ)などの密教法具や奥義の全てを授け終わると、十二月十五日入寂。空海の長安到着からちょうど一年。実に運命的な出会いです。空海と恵果和尚のこの接点がなければ、日本仏教の姿は大きく変わったことでしょう。

★ 独学と努力の天才、空海

空海の遺言をまとめた御遺告(ごゆいごう)によると、修行中に南都久米寺で密教経典の大日経に遭遇。日本には密教奥義を実践できる阿闍梨がいなかったため、これを究めるために入唐を目指すようになりました。

唐語、梵語を独学で学び、入唐後も長安への道中勉強を継続。恵果和尚から奥義を授かる際に役立ちました。独学と努力の天才、空海の真骨頂です。

★ 家康公は寅年

三十一歳で受戒、三十二歳で阿闍梨となった空海。日泰寺参道中ほどの歳弘法でその頃のお顔をご覧ください。弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師徳川家守護寺であったことから、寅年の家康公に因んでご本尊の薬師如来が寅薬師と呼ばれます。

★ 空海、日本に帰る

来月は三十三歳で日本に帰国、三十六歳で入京を許されるまでの歩みをお伝えします。乞う、ご期待。

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