第208号(令和元年10月

皆さん、こんにちは。秋本番です。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は 実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。いよいよご真骨(本物と認定されてい仏舎利)奉安場所が名古屋に決まります。

★建仁寺

一九〇二年(明治三十五年)七月二十八日、各宗派管長会議が京都で開催されました。議論の結果、最終候補地は京都と名古屋の二ヶ所に絞られました。

名古屋が残った主因は、十万余坪の広大な用地と潤沢な資金が確保されていたことです。

京都派も平安同志会を結成。神楽岡、松ヶ崎(左京区)、日岡(山科区)が候補地。しかし、いずれも名古屋に比べて狭いのが難点でした。

その後は京都派、名古屋派が相乱れ、怪文書や醜聞が乱れ飛び、なかなか決め手がありません。

九月十六日、痺れを切らした外務省政務局長山座円次郎は各宗派管長に決定督促の書簡を送りました。

そして十月十二日、覚王殿建設地の最終決定会議が建仁寺で開催されることとなりました。

建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山です。

京都派も名古屋派も苛烈な運動を展開。今風に言えばロビー活動。要するに多数派工作です。

名古屋派は早々と建仁寺に到着する一方、京都派は建仁寺内久院に集まって情報収集と作戦会議。

会場周辺は、仏教には相応しくない言葉ですが(笑)殺気立っていたと伝わっています。

★三十七対一

     

会場は緊迫していました。決定権者は八十四名。三十三宗派代表と、寺院数に応じて各宗派から選出された五十一名。

     

午前の会議では名古屋派優勢。情勢を憂慮した京都派は、記名投票で最終決定を行うことを提案。

名古屋派は記名投票では過日に禍根を残すことを危惧し、無記名投票を主張。

結局、記名投票の提案は否決。記名投票が受け入れられないことを理由に八宗派が退席しました。

日蓮宗の津田日厚が、混乱回避を企図して議事日程変更の緊急動議を提出するも否決。混乱回避のために、選定を大宗派に委ねるべきとの提案等を出たものの、これも否決。これを受けてさらに六宗派が退席。

こうした展開の中で、大谷派を除く真宗諸派の僧侶も退席。議場は騒然とします。

京都、名古屋どちらにも組せず、そもそも出席を辞退した中立派も五宗派あり、結局最後まで会議に出席したのは十四宗派、三十八名

その後、残った委員で無記名投票による採決が行われ、三十七対一の圧倒的多数で建設地が名古屋に決定しました。

嘘のような話ですが、史実です。

一部の宗派から投票の無効の訴えがありましたが、結果が覆ることはありませんでした。

こうして覚王殿は名古屋に建設されることになりました。

★日本大菩提会愛知協賛会

十月二十二日、名古屋では御遺形奉安置選定期成同盟会を解散し、日本大菩提会愛知協賛会に改組。

会長に尾張徳川家当主徳川義礼や愛知県知事深野一三が推されましたがいずれも辞退。会長不在のまま、吉田禄在、小栗富治郎、服部小十郎の副会長三名体制で発足しました。

十一月五日、各宗派管長会議が開催され、十一月十五日に仏舎利を京都から名古屋に奉遷し、大日本菩提会も移転させることが決定しました。

辞意を表明した村田と前田に代わり、会長には仏舎利奉迎使節団の正使を務めた東本願寺の大谷光演(句仏上人)、副会長にやはり使節団の副使を務めた曹洞宗の日置黙仙(後の永平寺貫主)が就任しました。

★名古屋・万松寺

さて、来月はいよいよ名古屋にご真骨が奉遷されます。、仮奉安所となったのは門前町(大須)の万松寺 です。乞ご期待。

 

kobosan-kawaraban kobosan-kawarabankobosan-kawaraban kobosan-kawaraban