第210号(令和元年12月

皆さん、今年もあとわずかになりました。年末年始、お風邪など召されぬようにくれぐれもご自愛ください。

実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしてきた今年のかわら版。いよいよ総集編です。

★日暹寺から日泰寺へ

年初からお伝えしてきた史実を整理します。

一八九八年(明治三十一年)、ピプラーワーでご真骨発見。

一八九九年(明治三十二年)、ご真骨はタイ国王に贈与。バンコクへ。

一九〇〇年(明治三十三年)、タイ国王から日本に分骨。京都へ。

一九〇二年(明治三十五年)、覚王殿建設地が名古屋に決定。ご真骨は名古屋大須へ。

一九〇四年(明治三十七年)、田代村に日暹寺(にっせんじ)創建。ご真骨は覚王山へ。

一九一八年(大正七年)、ご真骨を祀る高さ十五メートルの奉安塔完成。伊東忠太東大教授の設計でガンダーラ様式の花崗岩の仏塔。二階部分にご真骨が安置されています。

奉安塔前には 礼拝殿。その木材はご真骨奉遷の功労者稲垣満次郎をタイ公使に任命した際の外相、大隈重信公が寄進したものです。

一九二〇年(大正九年)、新栄にあった日清戦争記念碑が奉安塔西北に移築。

一九二四年(大正十三年)、重さ七十五トンの完成。しかし、鐘楼に吊るされることはなく、一九四二年(昭和十七年)軍需資材として供出。同年十月二十一日、「撞き初めと聞き納め」が行われました。

一九二七年(昭和二年)、プラチャーティポック国王(ラーマ七世)が新たな金銅仏を下賜。かつてチュラロンコン国王より下賜されたご本尊と同じ結跏趺坐像です。

一九三二年(昭和七年)シャム(暹羅)の国名がタイに変わり、日本語漢字表記も「」から「」に変更。日暹寺の「暹」はシャムのことです。

シャムはサンスクリット語の「黄金」に由来し、古い時代のインド人または中国人による呼称でした。

民族主義の台頭に伴い、民族名のタイを採用。タイとは「大いなる国」を意味します。

一九四一年(昭和十六年)、日暹寺も日泰寺に変更されました。

★日タイ友好の証

     

一九五九年(昭和三十四年)四月五日、釈尊生誕二千五百年大法要が営まれました。

一九八四年(昭和五十九年)、念願の本堂完成。日本初の屋内型墓地の霊堂も完成。四階建て、約四千六百基の墓石を納めています。

一九八五年(昭和六十年)、梵鐘鐘楼完成。

一九八六年(昭和六十一年)、山門完成。

一九八七年(昭和六十二年)、日タイ修好百周年記念としてチュラロンコン国王像建立。像の前に、タイ国皇太子がタイの花、海江豆(カイコウズ)をお手植え。毎年五月頃に真紅の花を咲かせます。

一九八九年(平成元年)、山門両脇の二尊像が完成。高さ四・五メートルの楠一木造りです。

いずれもお釈迦さまの十大弟子。最長老でお釈迦さま入滅後の教団を率いた迦葉尊者(頭陀第一)と、お釈迦さまの従兄弟で教えを一番たくさん聞いた阿難尊者(多聞第一)です。

一九九七年(平成九年)、高さ三十メートルの五重塔完成。中にはチュラロンコン国王妃の写経が納められていると聞きます。

一九九八年(平成十年)香積台完成。

二〇〇四年(平成十六年)、日泰寺創建百周年。奉安塔と鳳凰台が一般公開されました。

本堂須弥壇の両側にはお釈迦さまの大壁画。出家遊行に出る場面の「城を出る」と、前正覚山での修業後に下山した際に村の娘から供養を受けた場面の「乳粥の供養」。高山辰雄画伯の作品です。

日タイ友好の証(あかし)、日泰寺にはタイ王室の方々が度々ご来訪されています。一九三一年にはラーマ七世、一九六三年にはプミポン国王(ラーマ九世)、日タイ修好百周年の一九八七年にはワチラロンコーン皇太子、日泰寺創建百周年の二○○四年にも多くのタイ賓客が来訪されました。

最近ではタイの観光客もバスに乗って大勢参拝に来るようになりました。

名古屋が誇る名刹として、その歴史を語り継いでいくことが大切です。

★三河新四国霊場

一昨年、昨年にお伝えした知多四国八十八ヶ所霊場と並んで、県外の皆さんにもよく知られている三河新四国霊場。来年は三河新四国霊場についてお伝えします。

それでは皆さん、よい年をお迎えください

 

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