第219号(令和2年9月

     

皆さん、こんにちは。まだまだ暑い日が続きますが、コロナや熱中症に気をつけてご自愛ください。

今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は高名な豊川稲荷を参拝します。

★豊川稲荷の妙厳寺

三十九番・四十番から南へ約三キロメートル進むと大伽藍が目に入ってきます。別格霊場、圓福山妙厳寺。豊川稲荷と呼ばれて親しまれていますが、曹洞宗の名刹です。

日本三大稲荷のひとつとされ、今も門前町が健在。広大な敷地に百余の堂宇が並ぶ大伽藍です。

一四四一年(嘉吉元年)、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易が開創。

境内に祀られる秘仏、豊川?枳尼真天(だきにしんてん)。白狐の背に乗り、宝珠を手に稲穂を担いで岩の上を飛ぶ天女の姿から豊川稲荷の名で呼ばれるようになりました。

東海義易は幼名岩千代。九歳の時に曹洞宗法王派五世の華蔵義曇に入門。

その弟子、寒巌義尹(法王派法祖)が入宋。一二六七年(文永四年)、日本への帰路に加護を受けた?枳尼天を護法神として尊崇。

その後、寒巌の六代目法孫にあたる東海義易が妙厳寺開創に際し、寒巌自作の?枳尼天像を山門の鎮守として奉安。豊川稲荷の誕生です。

妙厳寺開創時に平八郎と名乗る翁に化けた狐が寺男として義易に仕え、義易入寂後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという話が伝わります。この釜は本殿奥に安置されています。

戦国時代には、今川義元が伽藍を整備。吉本寄進の山門が今も残ります。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆など、多くの戦国武将が豊川稲荷を庇護。江戸時代には大岡忠相渡辺崋山も帰依し、一八二八年(文政十一年)には大岡邸の一角に江戸参詣所(東京別院)が創建され、今日の赤坂見附豊川稲荷となっています。

一八七一年(明治四年)、神仏分離令が妙厳寺にも及びましたが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められました。もっとも、境内参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、豊川稲荷の呼称も使われなくなり、以降は豊川?枳尼真天と号するようになります。

しかし、間もなく通称として豊川稲荷と呼ぶことが復活。江戸時代に参詣目印に東海道に建立された石鳥居が一九三〇年(昭和五年)に境内に移設され、今日に至っています。

江戸時代に全国の寺社に?枳尼天を勧請していた愛染寺(伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への?枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになりました。

ご本尊(別格霊場)千手観音

ご本尊(豊川閣)?枳尼天

ご詠歌 円福に 稲をせおいし御すがたは めぐりて祈る 心にぞ知

★大亀由来の寿命院

豊川稲荷からさらに約二キロメートル東進し、名鉄豊川稲荷駅とJR飯田線を越え、さらに国道一五五線を横切ると、姫街道沿いに四十一番、松亀山寿命院があります。三河新四国最東端の霊場であり、真言宗醍醐派のお寺です。

当地は豊川の川岸。松の大木の根元に大亀がいるのを見た尊聖上人一四二八年(正長元年)に松亀山と号して開創しました。

四十二番は山内にある仏木殿です。

ご本尊(四十一番)不動明王

ご本尊(四十二番)弘法大師

ご詠歌 ことぶきの 命守りし不動尊 恵みはひろき 松の亀山

★三河国二葉松の徳宝院

四十一・四十二番から国道一五五線を約四キロメートル南下、城下交差点を右折してJR飯田線を横切って牛久保に行くと、四十三番、宮嶋山徳宝院があります。真言宗 のお寺です。

一五六〇年(永禄三年)、牛久保城主小笠原佐渡守が城の鬼門の方角(戌亥=北西)に祈願所堂宇を建立したのが当寺の始まり。

ご本尊は一三九五年(応永二年)に作られた不動明王。

寺宝に三河国二葉松という古門書があるそうです。天正年間(一七三六〜一七四一年)に佐野監物住職が作成したもので、三河地方の地誌、城郭、寺社仏閣、古墳などを詳しく書き残した貴重な郷土資料。是非拝見したいものです。

四十四番は本堂の左奥にある清龍殿です。

ご本尊(四十三番)不動明王

ご本尊(四十四番)三宝荒神、清龍権現

ご詠歌 詣るより 頼みをかくる宮嶋の 法の光に あうぞうれしき

★子安弘法の金剛寺

来月から蒲郡市に入ります。まずは三谷温泉の山上にそびえる子安弘法で有名な弘法山金剛寺。新幹線からも見える子安弘法。乞ご期待。

 

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