第221号(令和2年11月

     

皆さん、こんにちは。冬も近くなり、寒い日が増えました。今年はインフルエンザとコロナの両方に気をつけなくてはなりません。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は蒲郡市西部の形原温泉に向かいます。

★人形供養

四十九・五十番から蒲郡駅北側の市街地を北西に約二キロメートル進むと、五十一番、松全山薬證寺真言宗醍醐派のお寺です。

蒲郡の基盤を築いた藤原俊成がここに国家鎮護道場をつくったのが起源。当初の寺号は安養寺だったそうです。

寺号が変わったのは一七五一年。当地の上ノ郷城の城主が病を患い、当寺に病気快癒の祈祷を依頼。十七日間続いた祈祷の結果、城主は無事快癒。以来、寺号が薬證寺に改められました。

人形供養でも知られており、毎年三月四日には人形供養祭りが行われます。

五十二番は本堂右側にある大師堂です。

ご本尊(五十一番)不動明王

ご本尊(五十二番)秋葉三尺坊大権現

ご詠歌 大聖の 諸病を癒す願なれば 薬を證す 寺に祈れよ

★形原温泉

五十一・五十二番から徐々に蒲郡駅周辺市街地を離れ西進。やがて国道二四七号線を西浦半島に向かって南下。名鉄蒲郡線を越えて大坪を左折すると形原温泉に入ります。

五十一・五十二番から約七キロメートル進むと五十三番、海性山真如寺浄土宗西山深草派のお寺です。

形原温泉は、天正年間(十六世紀後半)に補陀寺の祖丘禅師が夢のお告げによって湯を掘り当てたと伝わります。その後涸渇したものの、一九四五年の三河地震の影響で再び湧出しました。

温泉旅館が増えたために再度枯渇したものの、一九九八年、海岸から内陸に一・五キロメートルの原山の地下で湯脈が発見され、今日に至っています。

当寺の前身は佐久島の西にあった寺島という小さな島にあった草庵。寺島は波に削られ、今はほとんど見えないそうです。

一四六七年に幡豆郡山口郷に移転。火災に遭ってさらに移転して当地に落ち着きました。

九代住職聴覚上人の時に当地の有力者、松平庄右エ門が諸堂を寄進。末寺、檀家の多い三河の大伽藍になったそうです。

夏に訪ねた際には、境内に数えきれないほど多くの美しい風鈴が飾られていました。お盆の行事だったのでしょうか。

五十四番は本堂南側にある観音堂です。

ご本尊(五十三番)阿弥陀如来

(五十四番)子安観世音菩薩

ご詠歌 ご霊場 めぐりかさねて形原寺 真如の光 いとどさやけき

★眼病除け

五十三・五十四番から集落の中を抜けて約百メートル南に進むと、五十五番、行基山実相院浄土宗西山深草派のお寺です。

遠くに形原の海が見下せる小高い丘の上にあります。

天平年間(八世紀半ば)に諸国行脚した行基が巡錫、逗留。仏法有縁の地と感得して当地に小堂を建て、小高い丘は行基山と呼ばれるようになったそうです。

時代は下って一五一〇年、形原城主松平光重の四男実長が、五十三番札所の真如寺二世誉月和尚の下で得度。

名を暁誉 と改め、行基山に当寺を建立。当初は長福寺と言われたそうです。

形原城は江戸時代初期に当地に形原藩が置かれた時の居城。浜の名にちなんで稲生城、あるいは海に囲まれていたことから海岩城とも呼ばれたそうです。今川氏、松平氏の興亡に翻弄されたお城でした。

五十六番は本堂西側にある行基殿。一九三三年、ご本尊の日限地蔵に願掛けした村人の眼病が平癒。その御礼の額が奉納されています。

ご本尊(五十五番)阿弥陀如来

ご本尊(五十六番)日限地蔵大菩薩

ご詠歌 石段を 登るえにしの 行基山 大師をおがむ 心なりけり

★癌封じの無量寺

五十五番・五十六番から海の方に向かって西進。形原城と縁の深い利生院を経て、来月は西浦温泉に向かいます。

三河新四国の発願寺でもある癌封じ寺で知られる無量寺に向かいます。乞ご期待。

 

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