第225号(令和3年3月

     

皆さん、こんにちは。今月はご祥当。いよいよ春本番です。暖かくなってコロナ禍も収束することを祈ります。

昨年からお伝えしている 三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は三河新四国のクライマックス、大浜寺町に向かいます。

★棚尾の毘沙門天

七十一・七十二番から西に向かうこと約八キロメートル。県道四十三号線を進んで矢作川に架かる棚尾橋を渡ると碧南市に入ります。毘沙門という地名の交差点近くにあるのが七十三番、多聞山妙福寺浄土宗西山深草派のお寺です。

天台宗の古刹であったようですが、一五九〇年に月翁清白上人によって改宗。現在に至ります。

本堂西にある七十四番弘法堂に祀られる毘沙門天像は、八五一年に大和国から当地に荘園管理者として赴任してきた志賀左衛門のの護持仏です。左衛門に由来して、この辺一帯は志賀屋敷と呼ばれていましたが、当地の地名は今でも志賀町です。

毘沙門天像は聖徳太子作と伝わり、代々の住職も一代一回限りしか開帳できない秘仏棚尾の毘沙門天として親しまれています。

ご本尊(七十三番)阿弥陀如来

ご本尊(七十四番)志貴毘沙門天王 弘法大師

ご詠歌 碧海の 緑の海はにごれども 祖師のひろめし みのりよどまず

★大浜寺町

さて、七十三・七十四番から大浜港に向かって約二キロメートル。だんだんと潮の香りが濃くなる中、いよいよ大浜の中心部に入ります。

七十五番から八十六番霊場が密集する中心部は大浜寺町と呼ばれています。札所巡りをする前に大浜の歴史をご紹介します。

衣ヶ浦と呼ばれた海に突き出す半島状の地形。南の先端は尖った権現崎、東は入江の東浦、西は遠浅の海に大きな砂浜が広がる大浜。古くは南北朝の頃から三河随一の湊であり、海上交通の要衝として発展。

江戸時代の大浜は、幕府領、西尾藩領と変遷した後、一七六八年、田沼意次の側近、水野忠友が大浜藩を立藩。しかし、一七七四年に忠友が駿河沼津藩に所替えとなったのを機に、大浜藩は廃藩。そのまま沼津藩領となって幕末に至りました。

★大浜騒動

一八七一年に起きた大浜騒動にも触れておかなくてはなりません。

大浜は重要な海運拠点であったために他藩の出張所も置かれ、騒動は上総国(現在の千葉)菊間藩の領地内で起きました。

菊間藩は明治政府の廃仏毀釈がの方針に従い、支配下の寺の合併を進めようとしました。

この方針に二ヶ寺(西方寺、光輪寺)が応諾しましたが、こうした動きが広まることを懸念した他の寺が反発。

「菊間藩がヤソ(当時のキリスト教の呼び方)を推奨する」とか「神前念仏が禁止される」との噂が広がり、真宗大谷派三河護法会を中心に西方寺と光輪寺を糾弾するに及び、僧、門徒、農民と菊間藩役人との間で騒動が発生。

菊間藩の役人のひとりを暴徒が暴行し、殺害。急報を聞いた菊間藩は藩兵を派遣。隣接する西尾藩や重原藩も菊間藩を支援したことで、暴動は収束しました。

暴動を煽った僧や役人殺害に関与した暴徒数百名が捕らえられ、二人が斬罪に処され、多数の僧、暴徒が罪人となりました。

幕末維新史の一幕として語り継がれています。

★小豆観音

七十三・七十四番から再び県道四十三号線を西に約一キロメートル進むと大浜漁港。大浜の中心部です。

港橋を左折して渡ると昔からの集落の密集地。橋の南東角にある旧大浜警察署の往時を偲ばせるモダンな建物を横目に南下。集落の中に入っていくこと約五百メートル、七十五番融通山観音寺信貴山真言宗のお寺です。

途中、七十七番・七十八番東照山称名寺や七十九番・八十番南松山清浄院の前を通るため、逆打ちした方がよいというお遍路さんもいますが、とりあえず番号通りに南から北上します。

観音寺は一九五五年開山の新しいお寺です。開山は大竹清信尼

清信尼さんのご主人は日露戦争に出征。何度も戦死しかけたそうですが、その都度九死に一生を得て無事帰国。

清信尼さんは、ご主人が護持仏としてお守りにしていた丈わずか三センチメートルの小豆観音のおかげと感得。小豆観音を奉安するために当寺を開山したそうです。本堂には丈約四十センチメートルの護持仏と同じ像を彫って祀ってあります。

七十六番は本堂内にある融通殿です。

ご本尊(七十五番)聖観世音菩薩

ご本尊(七十六番)如意宝生尊

ご詠歌 大竹の 葉末に宿る 月かげは みだの心に 白玉と知れ

★松平八代と東照宮

次の七十七番には東照宮があります。来月は札所巡りの前に、徳川家康の祖先、松平八代についてお伝えします。乞ご期待。

 

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