第237号(令和4年3月)

     

いよいよ春本番。とは言えまだまだ朝晩は寒い日があります。ご自愛ください。

尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のからのかわら版。今月は尾張氏と日本武尊の歴史です。

★天孫族の尾張氏

尾張名古屋と聞くと熱田神宮が思い浮かびます。熱田神宮には草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られていますが、その経緯は意外に知られていません。尾張の古代史を探訪しましょう。

尾張は古代から豊穣な国でした。木曽三川の沖積低地は豊かな米の恵みを、伊勢湾は海の幸をもたらしました。

豊かであるから人が増え、地理的に近い大和王権との関係が形成され、尾張氏(おわりうじ)が治めるようになった地域が尾張と呼ばれるようになります。

日本書紀によると、尾張氏の祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)です。天忍人命(あめのおしひとのみこと)から始まるとされていますが、綿津見神(わたつみのかみ)を始祖とする系図もあります。神話の神々のように思えますが、それに比定される古代尾張氏の人物が実在したはずです。

尾張は畿内に近く、しかも豊かであったことから、尾張氏は大王家に后妃を送り出すようになります。

例えば、尾張氏の遠祖である奥津余曾(おきつよそ)の妹、余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)または世襲足媛(よそたらしひめ)は五代孝昭天皇の皇后となり、その息子は六代孝安天皇となりました。十代崇神天皇は尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)を妃としています。

つまり、尾張氏は天孫族です。

★日本武尊(やまとたけるのみこと)

木曽川や庄内川の扇状地の拡大に伴って、海岸線は南下し、尾張氏の居住域も徐々に南に拡大します。松巨島(まつこしま)が形成された頃には、熱田の辺りにも尾張氏一族が住むようになります。

国造(くにのみやつこ)とは朝廷から任命された地方の統治者です。国造本紀によれば、十三代成務天皇の時代に乎(小)止与命(小豊命、おとよのみこと)が尾張国造に任命されます。乎止与命の息子建稲種命(たけいなだのみこと)も国造に就きます。

十二代景行天皇は息子の日本武尊に東征を命じました。日本書記や古事記では、倭建命、小碓命(をうす)など、複数の表記が見られます。

   

日本武尊は往路伊勢神宮を参拝し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(天叢雲剣)を授かりました。東征には尾張氏の建稲種命が副将軍として参じ、軍功を上げます。

東征から戻った日本武尊は、副将軍建稲種命の妹宮簀媛(みやずひめ)を娶ります。宮簀媛は日本書紀の表記ですが、古事記では美夜受比売と記されます。

その後、日本武尊は草薙剣を宮簀媛に託して伊吹山に遠征します。しかし、その途中で病になり、さらに伊勢国への遠征途上、能褒野(のぼの、亀山)で亡くなりました。

宮簀媛は草薙剣を奉じて熱田社を建てました。これが熱田神宮の起源であり、現在も草薙剣は御神体として祀られています。大宮司家は代々尾張氏の後裔が務めました。

建稲種命の息子尾綱根命(おつなねのみこと)は応神朝の大臣、その息子(建稲種命の孫)尾張意乎己(尾張弟彦、おわりのおとひこ)も仁徳朝の大臣として活躍。また、十五代応神天皇は建稲種命の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后としました。

★萱津神社と内々神社

尾張国には、萱津神社(あま)や内々神社(春日井)など、日本武尊の東征にまつわる神社が各地にあります。

日本武尊は、東征の往路に萱津神社に参拝しました。村人が漬物を献上すると、日本武尊は「藪二神物」(やぶにこうのもの)と言って称えます。藪の中で神からの授かりもの(あるいは神への供え物)を賜ったという意味かと思われますが、以来、漬物は「香の物」とも呼ばれるようになりました。萱津神社は漬物の神様を祀る珍しい神社です。

陸奥国を平定し、尾張国に戻ってきた日本武尊が内津峠にさしかかった時、早馬の使者がやってきます。副将軍を務めた尾張国造の建稲種命が亡くなったとの報告です。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりと伝わります。

内津峠は春日井と多治見をつなぐ峠であり、江戸時代には名古屋城下と中山道を結ぶ下街道(善光寺街道)が通りました。

その後も尾張氏と大王家の深い関係は続きます。二十六代継体天皇が大和国入りするまでの正妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)です。

子の勾大兄皇子は二十七代安閑天皇として、高田皇子は二十八代宣化天皇として即位します。三十代敏達天皇と皇后額田部皇女(三十三代推古天皇)の子には尾張皇子(おわりのみこ)がいます。

★尾張多々見と尾張大隅

尾張多々見の息子である尾張大隅は、六七二年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)に助力しました。

続日本紀によれば、大海人皇子が吉野宮を脱して鈴鹿関の東、つまりおそらくは尾張に入った際、尾治大隅が館と軍資金を提供しました。

来月は尾張多々見と尾張大隅をご紹介します。乞ご期待。

 

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