弘法さんかわら版   第44号(平成18年2月)

 

 皆さんこんにちは。立春を過ぎましたがまだまだ寒い日が続きます。風邪などひかないようにご自愛ください。

 

帝釈天の四人の忠臣

 

 かわら版の先月号では天部のひとつ、帝釈天についてお伝えしました。今月は帝釈天の四人の忠臣で方位の守護神、四天王をご紹介します。

帝釈天の住む須弥山(しゅみせん)東西南北の門を護るのが四天王です。

 には持国天(じこくてん)国を支える者」という意味で、頭には兜、右手には長い宝剣を持ちます。

 西には広目天(こうもくてん)浄天眼(じょうてんげん=千里眼)で世界の全ての出来事を見届けて書き記すために巻物と筆を携えます。

 には生命力を司る神、増長天(ぞうちょうてん)。口を大きく開けて叫ぶ忿怒相、右手には長い槍。生きものを護り育てます。

 には多聞天(たもんてん)。仏の教えをたくさん聞いている知恵者です。右手には仏舎利(お釈迦様の骨)を収めた宝塔を持っています。

 多聞天は別名毘沙門天。こちらの呼び名の方が有名かもしれません。毘沙門天は日本では単独でも信仰を集め、七福神のひとつでもあります。

 お寺の本尊を安置する場所が須弥壇(しゅみだん)。これは須弥山に由来します。だから、本尊の四方に四天王が配置されるのですね。

 

四天王寺、東寺、川崎大師

 

四天王といえば、大阪の四天王寺が思い浮かびます。聖徳太子が中国から伝来したばかりの仏教を広めるために建てたお寺です。もちろん四天王像が祀られています。

弘法大師縁(ゆかり)の京都東寺には国宝木造四天王立像

東寺の立像をまねて作られたのが川崎大師(神奈川県)大山門の四天王像。川崎大師は全国指折りの初詣の名所。正式には金剛山平間寺(へいけんじ)と言い、関東三大師のひとつです。

 

覚王山にも川崎大師

 

覚王山にも四天王像を祀った川崎大師があります。覚王山から池下方面に下った左手(広小路南側)、川崎大師御分身光明寺です。

日泰寺山門の立像は四天王ではなく、お釈迦様のお弟子さん。本堂に向かって左が迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、右が阿難尊者(あなんそんじゃ)。詳しくはかわら版第二十号(平成十六年二月号)をご参照ください。

 

織田信長の四天王

 

 ライバルや有力者のことを四天王と言います。日泰寺の東には織田信長の厳父、織田信秀の居城末森城跡(現在は城山神社)があります。織田信長の四天王は柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀。このうちの滝川家菩提寺覚王山八十八箇所霊場C地区にある大林寺。名古屋城築城の余材で建立された由緒正しいお寺です。

 

天邪鬼を撃退する四天王

 

四天王が足元で踏んでいるのは天邪鬼(あまのじゃく)人の心に棲みつく煩悩の象徴であり、四天王がこれを撃退します。人の意見に何でも反対したり、周囲に迷惑をかけることをあまのじゃくと言いますが、四天王に由来する言葉とは知りませんでした。

 

次回は毘沙門天

 

 さて、来月二十一日は正御影供(しょうみえく)、弘法大師の年命日です。次回は四天王の中心、多聞天こと毘沙門天についてお伝えします。織田信長と同じ時代を生きた有名な戦国武将とのご縁についてもご紹介します。乞うご期待。

 kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban

 

 

弘法さんかわら版   第45号(平成18年3月)

 

 皆さんこんにちは。今日は正御影供(しょうみえく)弘法大師の年命日です。

 

四天王のリーダー、毘沙門天

 

 昨年から仏像についてお伝えしていますかわら版。今月は天部(インド由来の仏像)編の三回目です。

先月号では帝釈天の四人の忠臣、四天王をご紹介しました。帝釈天の住む須弥山(しゅみせん)東西南北の方角をそれぞれ守っている持国天・広目天・増長天・多聞天。その中で、多聞天だけは単独で信仰され、毘沙門天(びしゃもんてん)とも呼ばれます。

他の三者は一つの方角だけを守るのに対し、毘沙門天は北だけでなく、東西南の方角も守っています。

 

一人三役の毘沙門天

 

多聞天は仏の教えを多く聞いている知恵者として、毘沙門天は勝負事にご利益がある武闘神として知られています。甲冑をまとった武人の姿をしており、戦国武将の信仰を集めました。

戦国武将と言えば上杉謙信謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、上杉軍の旗に「」と記しました。敵が恐れをなす軍旗でした。

毘沙門天には七福神としての顔もあります。七福神と言えば、大黒天、恵比寿、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋、そして毘沙門天。七福神としての毘沙門天は財宝を司る神様として古くから庶民の信仰の対象です。

毘沙門天は一人三役の人気者、大忙しですね。

 

毘沙門天の妻、吉祥天

 

四国八十八箇所霊場の中で、唯一天部の仏像をご本尊としているのは第六十三番札所、密教山吉祥寺弘法大師が当地の人々の貧苦を救うために毘沙門天像を刻んで祀りました。脇士には同じく天部の吉祥天(きちじょうてん)毘沙門天の妻とも言われており、寺号になっています。女性の姿をした天部で、繁盛や幸運を司ります。

 

覚王山の吉祥寺と毘沙門天

 

さて、日本最小の四国霊場の「写し」覚王山八十八箇所霊場の吉祥寺は日泰寺奉安塔の奥、E地区にあります。

覚王山霊場の周辺には古寺、名刹がたくさんありますが、毘沙門天をご本尊としているお寺はありません。もっとも、広小路を挟んで日泰寺の反対側にある松林寺には、ご本尊の薬師如来のほかに、毘沙門天が祀ってあります。

天部、七福神の仲間も祀られています。C地区の南にある台観寺には、弘法大師作の大黒天。台観寺の秋の大黒祭は多くの人で賑わいます。

織田信長の父、織田信秀の菩提寺として有名な桃巌寺(本山交差点そば)には弁財天。信秀が弁財天の熱心な信仰者だったそうです。

全国の七福神巡りの中でも人気の高いなごや七福神。毘沙門天は中区錦の福生院にあります。

 

夜叉は毘沙門天の従者「夜叉」

 

 毘沙門天の眷属(けんぞく=従者)である夜叉(やしゃ)のこともご紹介しておきます。空中を飛び回る凶暴な鬼であった夜叉は、お釈迦様に諭されて仏教に帰依し、毘沙門天の従者となりました。

因みに、尾崎紅葉の有名な小説金色夜叉の夜叉も、この夜叉です。婚約者に裏切られた主人公が金の亡者となるストーリーから「金色夜叉」というタイトルが生まれました。

夜叉のように、お釈迦様に諭されて仏教を守る八つの眷属を八部衆と呼びます。第四十号でご紹介しました不動明王が背負う伝説の火の鳥、迦楼羅(かるら)も八部衆です。

 

次回は八代龍王

 

 来月号ではその八部衆についてお伝えします。八部衆のひとつ、八代龍王は参道沿いの歳弘法お告げのお石に関係があります。乞うご期待。

 kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban

 

 

弘法さんかわら版   第46号(平成18年4月)

 

皆さんこんにちは。今月はお釈迦様の誕生月。潅仏会(かんぶつえ=お釈迦様の誕生日の四月八日)は、今月の話題、八大龍王とも関係があります。

 

八大(代)龍王は八部衆

 

参道中ほどに、弘法大師の生誕から入定(六十二歳)までの像が祀られた歳弘法があります。その歳弘法の入口に鎮座しているのが八代龍王のおつげの石。表側には八代龍王、裏側には心念の二文字。黄色い座布団の上に鎮座しているおつげの石に悩みを相談すると、処し方のおつげがあると言われています。

八代龍王は八大龍王とも書き、お釈迦様の八つの眷属(けんぞく=従者)である八部衆のひとつ。八部衆はインド古来の異教の神であり、お釈迦様に諭されて仏教を護るようになりました。伝説の火の鳥迦楼羅(かるら)、先月号でご紹介しました夜叉(やしゃ)天(てん)、乾闥婆(けんだつば)、緊那羅(きんなら)、摩羅迦(まごらか)、阿修羅(あしゅら)龍(りゅう)の八つです。

八大龍王はこのうちの龍のこと。難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、沙伽羅(しゃから)、和修吉(わしょうきつ)、徳叉伽(とくさか)、阿那婆達羅(あなばたら)、摩那斯(まなす)、優婆羅(うばり)の八匹の龍からなる龍神です。

 

神仏一体の雨乞いの神様

 

龍は水中に住む架空の生物。インドでは雨を司る大蛇でしたが、中国、日本では龍となり、雨を降らせるご利益があると言われています。

八大龍王像(画)で有名なのは大阪孝恩寺奈良法隆寺、そして弘法大師縁の和歌山金剛峯寺。左手に宝珠を盛った鉢を持つ金剛峰寺の善女龍王(画)は、弘法大師が雨乞い祈祷した際に現れたと伝えられています。

東海地方で有名なのは伊勢神宮の鬼門を守る朝熊岳金剛証寺八大龍王社。弘法大師が修行のために入山したと言われています。

もともとインドの神であり、仏教の守護神でもあることから、神仏一体の信仰の対象となりました。

 

八大龍王は八岐大蛇?

 

大蛇、八匹の龍、神様、神宮と聞くと、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が思い浮かびます。素戔嗚尊=須佐之男命(スサノオノミコト)が退治した大蛇が八岐大蛇。その大蛇の尻尾から出てきたのが天の叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)。その剣は転じて三種の神器のひとつ草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がご当地、熱田神宮に祀りました。

八大龍王社を奉じる伊勢神宮に次ぐ格式の熱田神宮に八岐大蛇縁の草薙の剣があることを考えると、八大龍王と八岐大蛇には因縁があるような気がします。

 

潅仏会と甘露の水

 

ところで、お釈迦様が生まれた時に、八大龍王が現れて、甘露の水を口から注いで釈迦の身を清め、誕生を祝しました。その甘露の水は花びらとなって地上に降り注いだことから、潅仏会のことを花供(花まつり)とも言います。潅仏会の今月は、是非、八大龍王をお参りください。

 

歳弘法の大修復、次回は梵天

 

さて、八大龍王のおつげの石がある歳弘法。その歳弘法の弘法大師像の傷みが激しくなり、今年から大修復にかかります。歳弘法ではご尊像一体ごとに修復の施主となる奉賛会員を募集するそうです。新しいご尊像の台座には施主の名前が記され、弘法大師と同行二人を体現します。ご関心のある方は、歳弘法で詳細をお尋ねください。

来月号は、インドの神様である天部の中の最高神梵天についてお伝えします。梵天は仏教の教えを広めるのに大きな功績を残しました。乞うご期待。

 kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban

 

 

弘法さんかわら版   第47号(平成18年5月)

 

皆さんこんにちは。来月十五日は弘法大師の誕生日、新緑の季節に因んで青葉祭りと言います。

 

梵天なくして仏教なし

 

さて、年初より天部についてお伝えしているかわら版。天部は仏教に帰依したインドの神様です。今月は、天部の中の最高神、梵天です。とはサンスクリット語(インドの古い言語)で偉大な」「神聖なという意味です。

梵天はお釈迦様(釈尊)が仏教を広めるのに大きな役割を果たしました。

釈尊が悟りを開いた時、その内容があまりに深遠であるために、人々に広めることは難しいと考えたそうです。その様子を天上から見ていた梵天は「あなたがその悟りを人々に広めなければ世界は滅んでしまう」と根気よく釈尊を勧請(説得)しました。

梵天の勧請を聞き入れた釈尊が五人の弟子に初めて語った説法のことを初転法輪(しょてんほうりん)と呼びます。そして釈尊を含めた六人最初の仏教教団が誕生しました。この一連の逸話は、梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と言う説話に記されています。

 

梵天と帝釈天は仏教守護の両雄

 

梵天は帝釈天と二体一対で祀られることが多く、両者を合わせて梵釈と呼びます。

一月号でご紹介しました京都東寺講堂立体曼荼羅の配置をみると、梵天と帝釈天の重要性がよく分かります。

立体曼荼羅には、弘法大師の指導によって、五仏(五智如来)五菩薩五明王四天王に、梵天と帝釈天を加えた二十一体の仏像が配置されています。

如来・菩薩・明王で表される密教世界の四隅を守るのが天部の四天王。東の持国天(じこくてん)、西の広目天(こうもくてん)、南の増長天(ぞうちょうてん)、北の多聞天(たもんてん)これに、インド古代神話の創造主ブラフマンが元になった梵天(ぼんてん)と、戦闘神インドラが元になった帝釈天(たいしゃくてん)を加えた六尊が守りを固めています。強そうですね。

梵天は緩やかな衣服をまとい、手には鏡や香炉を持ちます四面四臂(しめんしひ=顔が四つ、腕が四本)の像が多く、世界を見渡す最高神として世界全体に目配りしている姿を表します。 東寺梵天坐像は正面の顔の額に第三の眼を持ち、さらに千里眼を利かせます。梵釈が並んで立つ場合には、右に帝釈天、左に梵天が定位置です。

 

梵鐘の梵は梵天の梵

 

さて、お寺の釣鐘(つりがね)の正式名称は梵鐘(ぼんしょう)。梵鐘の梵は梵天の梵。神聖で偉大な鐘という意味です。

 もちろん、覚王山日泰寺にも梵鐘があります。現在の梵鐘は二代目。初代は高さ四・五メートル、重さ七十五トンの大梵鐘でしたが、第二次世界大戦末期の金属供出でなくなってしまいました。残念ですね。

 現在の梵鐘は、昭和五十九年、タイ国王ラーマ九世から日泰寺にタイの国宝釈迦如来像とタイ語で釈迦牟尼佛」と書かれた勅額が贈られた記念に作られました。梵鐘の壁面には勅額を書き写した文字が記されています。是非一度ご覧ください。

 

次回は執金剛神

 

愛知県で最も有名な梵天像は瀧山寺(岡崎市)梵天立像。四面四臂像で、やはり帝釈天立像と一対になっています。この梵釈立像を作ったのは鎌倉時代の有名な仏師(仏像の彫り師)である運慶。愛知県にも重要な仏教美術があるんですね。

さて、来月のかわら版では執金剛神についてお伝えします。とても力強い二人一組の像です。乞うご期待。

 kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban kobosan-kawaraban

 

 

弘法さんかわら版   第48号(平成18年6月)

 

皆さんこんにちは。梅雨の季節です。くれぐれもご自愛ください。

 

金剛力士と執金剛神

 

年初よりインド由来の仏像、天部をご紹介しています。今月はお寺の門でよく見かける仁王像についてです。

仁王の呼び名は人数によって異なります。二人いる場合は金剛力士(こんごうりきし)一人だけの場合は執金剛神(しゅこんごうじん)と言います。

元はインドの武神ヴァジュラパーニ(金剛杵を持つ者の意)。手に持つ金剛杵は仏の教えが煩悩を打破する武器であることを象徴しています。そのため、別名金剛手持金剛とも言います。

二人(金剛力士)の場合、左側密迹金剛(みっしゃくこんごう)右側那羅延金剛(ならえんこんごう)です。

 

阿吽の呼吸

 

顔の表情も二種類。口を大きく開けて叫んでいるのが阿形(あぎょう)。真実の門を開いて真理に達する決意の表情。口を真一文字に閉じているのが吽形(うんぎょう)。地獄の門を閉じて罪悪を遮断することを示します。

二人の息がピッタリ合う様子を阿吽の呼吸と言いますが、これは金剛力士の阿形・吽形に由来。決まりはありませんが、右が阿形、左が吽形の場合が多いようです。仁王像が祀られたお寺の門は二天門仁王門と呼ばれます。

阿(あ)吽(うん)密教の世界観に通じる語。全ての始まり終わりを示します。日本語の五十音で始まりで終わるのは、このことと無関係ではないそうです。

 

弘法大師と金剛力士

 

お寺の守り神である金剛力士は千手観音菩薩の守護神でもあります。四月号でお釈迦様の八人の眷属(けんぞく=従者)である八部衆をご紹介しましたが、千手観音菩薩にはなんと二十八人の眷属、二十八部衆がいます。

千手観音菩薩のまわりには二十八部衆。その右端密迹金剛、左端那羅延金剛が守ります。

二十八部衆は曼荼羅の大成者、シルクロードの高僧、善無畏(ぜんむい)が作った千手観音造次第法儀軌という経典に記されています。これを弘法大師が中国から持ち帰り日本に広まりました。弘法大師がいなかったら仁王門もなかったかもしれません。

 

乱世を平定する執金剛神

 

 二人の金剛力士が合体した執金剛神にまつわる乱世平定の伝説。平安時代、平将門(たいらのまさかど)が朝廷に反旗を翻して乱世となった折、時の天皇が執金剛神に将門征伐を祈願。すると執金剛神は大きな蜂となって将門を刺し、見事に乱を平定したそうです。その場所がおとなり岐阜県荒尾(現在の大垣市)。かの地の御首(みくび)神社には将門の首を祀っているそうです。

 

日泰寺山門の像と財賀寺の像

 

ところで、日泰寺山門両脇の像は金剛力士ではありません。実はお釈迦様の二人のお弟子さん迦葉尊者(かしょうそんじゃ)阿難尊者(あなんそんじゃ)です。

 愛知県で最も有名な金剛力士像は財賀寺(豊川市の木像。なんと四メートル近くもあり、東大寺(奈良県)の像に次いで日本で二番目の大きさを誇ります。像を安置する仁王門とともに国の重要文化財。本堂にはご本尊の千手観音菩薩像とともに二十八部衆像も祀られています。

 

次回から、その他の仏像

 

菩薩如来明王編に続いてお送りしてきました天部編は今月で一区切り。来月からはこれらに属さないその他編です。乞うご期待。