耕平さんかわら版   157号(平成27年7月

 皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。くれぐれもご自愛ください。さて、旧暦の知立の縁日は今月は六日、新暦の覚王山の縁日はもちろん二十一日です。

 般若心経の意味を学ぶ今年のかわら版。生き方や社会のあり方を考える際の道標(みちしるべ)です。

今月は「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)無色声香味觸法(むーしきしょうこうみーそくほう)」の十四文字。

 このくだりは漢字の意味から何となくわかります。前半は「眼耳鼻舌身意」つまり、「目耳鼻舌体心」が「無」ければ、「色声香味觸法」つまり、色も音も匂いも味も感じることは「無」く、触感も「無」く、そして心が何か(法)を感じることも「無」い、という意味です。

 しかし、それは文字通りの意味。お釈迦様の教えですから、そこには深い含意があります。

 人間は六つの器官から六つの感覚を情報として入手します。しかし、何かを見て聞いて感じる時も、自分の先入観や固定観念に囚われ、それを「気持ち良い」、「悪い」と判断します。何かを自分の判断基準で裁(さば)いてしまうのです。

 だから、六つの器官がなければ、何も感じることはなく、何にも囚われることはない。何かを裁くこともない。

 たぶん、自分の「我(が)」に囚われるな、ということを教えてくれているのでしょう。

 目(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)舌(味覚)体(触覚)は人間の「五感」。これに「第六感」である心(意識)を加え、人間に備わった「六根(ろっこん)」と言います。

 日本各地の多くの山々が古くから信仰の対象になっています。修験道の行者(ぎょうじゃ)や山岳修行者が山を登る際、「懺悔、懺悔、六根清浄(ざーんげ、ざんげ、ろっこんしょうじょう)」と掛け声をかけながら歩くのは、何かに囚われている自分の「六根」を清め、真っ白な姿に戻すという意味が込められています。

 「六根清浄」して、何ごとも「裁かない」生き方。それがお釈迦様の教えのような気がします。

 多くの人に親しまれるご心経。わずか三百文字弱の短いお経の中に、お釈迦様の教え、人間関係や社会の問題を和らげる心のあり方、生き方についての教えが詰まっています。

 みんなが「六根清浄」という気持ちで日々過ごせば、国同士、人同士の争いや問題も少なくなるでしょうね。

 それでは、また来月。ごきげんよう。合掌。

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