耕平さんかわら版   159号(平成27年9月

 皆さん、こんにちは。もうすぐ秋本番。待ち遠しいですね。さて、旧暦の知立の縁日は今月は三日、新暦の覚王山の縁日はもちろん二十一日です。

 般若心経の意味を学ぶ今年のかわら版。生き方や社会のあり方を考える際の道標(みちしるべ)です。

 今月は「無無明亦無無明尽(むーむーみょうやくむーむーみょうじん)乃至(ないし)無老死亦無老死尽(むーろうしーやくむーろうしーじん)」の十八文字。

 先月号の復習から始めます。「乃至」は「何々から何々まで」という意味の古語でしたね。では、ここでは何から何を「乃至」という言葉で表現しているのでしょうか。

 人の一生は、様々な「因」と「縁」つまり「因縁」が織り成します。このことを仏教では「十二縁起」と呼び、十二の段階に分けて考えます。

 最初は「無明(むみょう)」。本能的な欲望です。両親の「無明」によって生を受け、二番目の「行(ぎょう)=業(ごう)」を受け継ぎます。先祖や両親の過去の行いや潜在意識を引き継いでいることを示します。

 三番目は「識(しき)」。生を受けた個人の自我。四番目は「名色(みょうしき)」。「名」は精神、「色」は肉体。母のお腹の中で精神と肉体を得ることを意味します。

 五番目は「六処(ろくしょ)」。ここでまた先月の復習。眼(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)舌(味覚)身(触覚)の「五感」に「第六感」である心(意識)を加えて「六感」。つまり「六処=六感」を身につけ、この世に生まれます。

 六番目は「触(しょく)」。母から生まれて外界に「触」れ、人生をスタート。七番目は「受」。「六処」から様々な情報を「受」けることを意味します。

 八番目は「愛(あい)」。自我に目覚め、欲が生じ、全てのものを渇「愛」。そして九番目は「取(しゅ)」。渇愛するものを、何としても奪い「取」りたいとする罪業。

 十番目は「有(う)」。罪業が自分の中に「有」るため、十一番目の「生(しょう)」つまり「生」きることが苦しい状態に至ります。

 そして十二番目が「老死」。人は誰でも老い、死んでいきます。

 さて、これで今月の十八文字が想像できます。無明はなく、無明は尽きない。行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生も同じ。老死もなく、老死も尽きない。

 そうです、人間の輪廻(りんね)は「十二縁起」の無限の繰り返し。始まりも終わりもないのがこの世の真理。

 この真理が体得できると、何かに「拘る」「囚われる」気持ちも和らぎ、身の回りの問題、人間関係や社会の問題もずいぶん解消されるような気がします。

 それでは、また来月。ごきげんよう。合掌。

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