耕平さんかわら版   175号(平成29年1月

  

 

 皆さん、明けましておめでとうございます。平成二十九年、丁酉(ひのととり)の年が始まりました。今年もかわら版をご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

 一昨年、昨年と般若心経の意味を学んできたかわら版。今年は日常会話の中に浸透している仏教用語を知ることで、仏教の教えを深く考えてみたいと思います。

 いろいろ不満が出てくるのは、欲のなせる業(わざ)。何かと不安になるのも、欲のなせる業。「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う心が「あれがない」「これがない」「あれを失うかもしれない」「これも失うかもしれない」という不満や不安の気持ちを生み出します。

 ご心経もそう諭してくれていました。

 そうですねぇ。何ごとも我慢、我慢。欲を抑えて、自分の気持ちを律する。そのためには我慢が一番。

 実はこの「我慢」。それそのものが仏教用語です。

 我慢の「我」は「自我」の「我」。我慢の「慢」は「慢心」の「慢」。つまり「自我の慢心」を略して「我慢」なのです。

 我慢するというのは、自分の気持ちを律している自分自身の姿、我慢している自分自身が「善」であるというような潜在意識を伴っています。

 しかし、我慢そのものが「自我の慢心」から生まれているのですから、我慢の原因そのものも自分の欲から生み出されています。

 嫌いな人、嫌なことに耐え、我慢している自分は可哀そう。そう考えがちですが、実は「嫌い」とか「嫌」という気持ちそのものが「自我の慢心」から生まれています。

 そのことに気づくと「嫌い」「嫌」という気持ちそのものが和らぎ、そもそも我慢する必要がなくなります。何しろ「自我の慢心」がなくなるのですから。

 「嫌い」なもの、「嫌」なものを無理矢理変えようとするのは「傲慢」。それを自分の気持ちを抑えて耐えるのが「我慢」。

 「傲慢」と「我慢」は親戚なのかもしれませんね。

 何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や出来事や社会を見つめ、病気や苦労も含めた全ての現実と向き合い、ありのまま受け入れること。

 そういう心の持ちようになると「傲慢」も「我慢」も縁遠くなります。

 「傲慢」は争いを招きます。「我慢」はストレスを溜め、それに耐えられなくなると、病んだり、争いごとに発展します。

 人間の執着や愚かさを戒め、少しでも平穏で争いごとの少ない社会にする。そのためには、一人ひとりが「傲慢」や「我慢」の本質に気づくことが肝要です。

 難しいですねぇ。でも心に留めておきましょう。「自分だけ我慢している」などと考えること自体が「自我の慢心」。言わば「傲慢」というものです。

 「かわら版」、今年もよろしくお願い致します。合掌。

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