耕平さんかわら版   176号(平成29年2月

  

 

 皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

 今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

 いろいろ不満が出てくるのは、欲のなせる業(わざ)。何かと不安になるのも、欲のなせる業。「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う心が「あれがない」「これがない」「あれを失うかもしれない」「これも失うかもしれない」という不満や不安の気持ちを生み出します。

 何ごとも我慢、我慢。でも、我慢と傲慢は紙一重。先月のかわら版で我慢は「自我の慢心」を表す仏教用語、「我慢と傲慢は親戚です」とお伝えしたところ、なかなかの好評をいただきました。ということで、親戚シリーズ第二弾。

 いろいろ不満があると、口から出てくるのは「愚痴(ぐち)」。実はこの「愚痴」も仏教用語です。

 「まったくもう、どうしてこうなんだ」「うちの亭主は」「うちのカミさんは」「そもそも社会は」と際限なく出てくる「愚痴」。日頃からお付き合いの深い親友です(笑)。

 自分の思い通りにならないこと、自分が我慢していることに対する不平不満として出てくるのが「愚痴」。仏教のサンスクリット語原典では「モーハ」と言い、「無知」を意味します。

 思い通りにならないのは人のせい、我慢しているのも人のせい、でも「それは違いますよ」「不平不満が出てくるのは自分の無知のせいですよ」と教えてくれているのが仏教です。

 そもそも漢字を見たら気がつきます。「愚痴」は「愚かな智恵(知恵)」と書きますので、愚かな考え、愚かな知恵が口から出て、それを他人に聞かせていると思うと、何と恥ずかしい。

 結果が自分の思い通りにならないので、口から出てくる「愚痴」。子どもの駄々(ダダ)と似ています。

 子どもに対して「何でも自分の思う通りにはならないのよ」と諭している大人の口から出てくる「愚痴」。

 何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や出来事や社会を見つめ、思い通りにならない結果とも向き合い、ありのまま受け入れること。

 そういう心の持ちようになると「愚痴」も「無知」も縁遠くなります。

 人間の執着や愚かさを戒め、少しでも平穏で争いごとの少ない社会にする。そのためには、一人ひとりが「愚痴」の本質に気づくことが肝要です。

 難しいですねぇ。でも心に留めておきましょう。「愚痴」を言っても、何かが変わるわけではありません。「愚痴」を言う時間とエネルギーは別の方向に向けるべきでしょう。

 「かわら版」、今年もよろしくお願い致します。合掌。

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