耕平さんかわら版   177号(平成29年3月

  

 皆さん、こんにちは。今日はご祥当。お大師様のご命日です。ご祥当が来るといよいよ春ですね。とは言え、まだまだ寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

 今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

 先々月、先月は「愚痴」と「我慢」が仏教用語であることをお伝えしました。「へ〜、知らんかったわ」というお声をずいぶん頂戴しました。

 「我慢」は「自我の慢心」が語源。したがって、仏教的には「我慢する」という気持ちがそもそも傲慢とお伝えしたものの、周りには迷惑な人がいるし、迷惑なこともあるので、「我慢する」という気持ちになるのも致し方なし。それが人情というものですねぇ。

 しかし、その「迷惑」も実は仏教用語。迷い、惑うので迷惑。

 「迷」はサンスクリット語の「ブラーンティ」を漢訳したもので、真実を見失い、誤った考えに執着して混乱すること。

 「惑」は同じく「クレーシャ」の漢訳。苦悩、妨げ、内面的な汚れを意味します。

 つまり、自分の心、内面が原因で迷い、惑う姿を表す言葉が「迷惑」です。

 「迷惑なことだ」と思う時には、そう思う対象への固定観念、先入観、潜在意識が影響し、それが「嫌なことだ」「ひどいことだ」と判断している、裁いているからこそ、「迷惑」であり、「我慢」しなくてはならないと思い、「愚痴」のひとつやふたつも出ようというものです。

 「愚痴」にしろ、「我慢」にせよ、あるいは「迷惑」も、いずれも自分の思い通りにならないことが目の前にあり、それに対する反応として現れる行動や気持ちです。

 自分の思い通りにならないことにどう向き合っていくのか、それをどう対処していくのか、その心構えと気持ちの整理の仕方を教えているのが仏教と言えます。

 心構えと気持ちの整理の仕方、などと書いている私も愚かです。そういうハウツー、ノウハウではなく、まわりの出来事や人を自分の考えで「裁かない」という姿勢、生き方こそが、お釈迦様が教えていた「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」の「三法印」。それが身につくと「涅槃寂静」の境地に到達。「三法印」に「涅槃寂静」を足して「四法印」です。

 これはまた難しくなってきました。やめましょう。

 「何だか面倒くさい話を読ませて迷惑だなぁ、このかわら版は」などと邪険にしないでください。迷惑だと思う気持ちこそ、ここに書いてあることに思い当たる節があるからかもしれません。

 「愚痴」を言ったり、「我慢」をしたり、「迷惑」な気持ちになることも、いずれもエネルギーを費やすことです。そのエネルギーは別なことに振り向けましょう。

 それではまた来月まで、ごきげんよう。合掌。

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