耕平さんかわら版   183号(平成29年9月

  

  皆さん、こんにちは。九月に入りました。季節の変わり目は体調を崩しがちです。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 お盆休みは子供や孫が帰省したり、同級生で集まったり、お正月と並んで楽しいひとときですね。冷やかし半分で「おまえも出世しなたなぁ」などという台詞が飛び交い、賑やかに過ごされたことと思います。

 さて「出世」も仏教用語です。仏教では「出世」にはふたつの意味があります。ひとつは「世に出る」という「出世」。悩み多き衆生(大衆)を救い導くために、仏がこの世に出現するという意味での「出世」です。

 もうひとつの「出世」は「世を出る」という意味。「に」が「を」に変わっただけですが、大きな違いがあります。

 世の中は難しいものです。欲があるから悩み、争いごとを起こします。人の欲、世間の価値観に心が動揺し、煩悩の中で人間は生きています。そんな世の中、世間を出る、つまり「出世間」という意味での「出世」です。

 厭世的になって世間から逃避するのではありません。そうした世の中や世間を超越し、覚りの境地に至ることが「世を出る」「出世間」「出世」という意味です。そういう人は、物事の道理をわきまえ、何事にも囚われず、感謝と謙虚の気持ちに満ちた人です。

 つまり「出世」した人というのは、世間的、社会的に地位の高い人のことではなく、覚った人、広々とした心、落ち着いた心を持った人のことです。

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言的な俳句がありますが、「出世」した人はそういう人です。世間的、社会的な地位故に傲慢に振る舞うような人は「出世」した人ではありません。

 「出世」には「出世の本懐」という言葉があります。「出世」のはじめの意味において、仏の願いは衆生を救い導くこと。そのために「出世」する、すなわち「出世の本懐」です。

 ふたつめの意味での「出世の本懐」は、人は偶然と因縁の賜物として生かされていることを覚り、人の欲、世間の価値観に囚われ、惑わされることなく、広く静かな心をもつこと。まさしく「実るほど頭を垂れる稲穂」となることが「出世の本懐」です。

 仏教用語としての「出世」の意味を知ると、世の中の風景が今までと変わって見えませんか。

 ひとりでも多くの人が「出世」の意味を理解し、「出世」するほど頭を垂れて謙虚になり、「出世」した人ほど、世間的な価値観に囚われることなく、人々のために役立とうと努める社会。そんな社会になれば、争いごとの少ない、平和で穏やかな人間関係の世の中になりそうですね。合掌。

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