耕平さんかわら版   192号(平成30年6

  

 

 皆さん、こんにちは。今年も梅雨の季節がやってきました。神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 六月になりました。四月には新入生だった学生も、学校生活に慣れてくる頃です。勉強に、クラブに、学生の皆さんには学校生活を有意義に過ごしてもらいたいですね。

 この「学生」も実は仏教用語です。仏教では、「学生」は「ガクショウ」と読みます。「学匠」とも書きます。

 日本仏教の二大巨人、伝教大師最澄と弘法大師空海。ふたりは、同じ遣唐使船団に参加して唐に留学しました。

 その時点で、最澄は既に朝廷に認められたエリート僧なので、「還学生(げんがくしょう)」という国費留学生。一方、無名の空海は「留学生(るがくしょう)」という私費留学生。

 というように、古くから「学生」が仏教用語として定着していました。

 元々はお寺に寄宿して学問を学ぶ者のことを指したそうですが、やがて仏教を学ぶ者を「学生」と呼ぶようになりました。

 比叡山延暦寺を開いた最澄は、山内で学ぶ「学生」たちの学則、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という書物を著しています。

 近世に入り、仏教用語から派生して一般に学問をする者を「学生(がくせい)」と呼ぶようになり、明治時代に「student」の訳語として定着しました。

 今も大学の教壇に立っていますが、学生諸君にいつも言っています。「自由に好きなことを学べる唯一の期間なのだから、何にでも興味をもって、学生生活を有意義に過ごすように」。しっかり学べば、「無学」ではなくなります。

 この「無学」も仏教用語。本来の意味は正反対です。「学ぶものが無い」のが「無学」ですから、相当学識のある高僧のことを「無学」と言っていました。したがって、「有学(うがく)」はまだ勉強不足の状態です。学識が有るという意味ではありません。

 「無学」と「有学」。一般的に使われる意味とは正反対です。

 毎年、最初の講義で、学生諸君に「高校までの授業と大学の授業では何が違うか」と聞くと、いろいろな答えが返ってきます。「答え」があるのが高校までの授業、「答え」はなく、自分で考えるのが大学の授業。自分自身で「考える」ことが大切です。

 仏教本来の意味では、「生きる」とは何か、「真実」とは何かを「考える」のが「学生」です。単に「答え」を求めているのではありません。

 因みに「真実」も仏教用語。来月は「真実」についてお伝えします。日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

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