耕平さんかわら版   193号(平成30年7

  

 

 皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。暑い日が増えます。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 先月は「学生(がくしょう)」についてお伝えしました。「学生」は、この世の中の「真実」を追求するために学びます。

 この世の中の「真実」とは何でしょうか。それが問題です。「真実」も仏教用語です。

 日本当に信じられるもの、信じられることに出会いたい。それは、人間の本質的な欲求と言ってもよいでしょう。

 「真実」とは、言葉の響きとして「正しい」こと、という語感が伴っています。つまり、「真実」とは「正しい」こと。

 しかし、人間は「正しい」ことを巡って争います。人によって「正しい」と思うことが異なるからこそ争いが起きます。家族の中でも、近所づきあいの中でも、それぞれが「正しい」と思うことが異なるので、争いが起きます。民族や国による争いも同じです。

 浄土真宗の開祖、親鸞聖人の言葉として、次の一節があります。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まこと(真実)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まこと(真実)にておわします」。

 お釈迦様は今から二千五百年前の人です。そのお釈迦様と同じ時代に生きた人が、哲学の元祖ソクラテス。

 ソクラテスは「正しい」ことや「正義」は定義できないとしました。以来、今日まで続く哲学の二千五百年の歴史の末に、現代哲学も未だに「正しい」ことや「正義」は定義できないとしています。

 仏教は本来、どのように生きるかを考える哲学です。西洋のソクラテス、東洋のお釈迦様、ふたりは東西の哲学のルーツ。そして、いずれも「正しい」ことは一概には言えない、万人に通用する「真実」は存在しないことを教えています。

 仏教の場合、そこで、仏の教え、仏の覚りのみが「真実」であるとしています。仏の教え、仏の覚りとは、感謝、謙虚、素直な気持ちで全ての事象を受け入れること。我欲と固執から解放されれば、争いごとは起きないことを諭しています。

 そういう姿勢で生きることが大切であるということ自体が「真実」であり、何が「真実」かを巡って争うことは、不毛であり、結論のないことであると言うことでしょう。

 因みに、現代の哲学者の最高峰はアマルティア・センというインドの学者。アジア人で唯一のノーベル経済学賞受賞者でもあります。

 齢八十半ばのセンの最新著書は「正義のアイデア」。その中でも、何が「正義」か、何が「正しい」か、何が「真実」かは定義できない。時間の許す限り熟議を尽くすことが、少しでも良い結論に到達する唯一の道と教えてくれています。

 日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

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