耕平さんかわら版   197号(平成30年11

  

 

 皆さん、こんにちは。今年も晩秋の十一月。寒い日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

 寒くなると、鍋物が恋しくなります。「食欲の秋」は食道楽には楽しい季節。そのあとは忘年会シーズンにお正月。食道楽冥利に尽きます。

 食道楽の「道楽」も仏教用語です。今では「道楽」というと、遊んでばかりいる人、怠け者といった意味で使われることが多く、「ドラ息子」の「ドラ」も「道楽息子」から転じているようです。

 「阿育王経」という仏経典に「道楽を得る」という記述があります。仏教では「道楽」は「覚り」を意味することから、「道楽を得る」とは「覚りの境地に達する」ことです。

 「法華経」にも「道を以て楽を受く」とあり、「道」を修めることによって得られる「楽」という「結果の悦び」を表します。

 つまり、仏教的には本来は良い意味で、高尚な言葉。仏教用語としては「ドウギョウ」と読みます。

 普通の人では到達できない素晴らしい境地、覚りの境地が「道楽」。それが今では良くないイメージで使われるようになったのはなぜでしょうか。

 江戸時代には、趣味に励み、極めることは格好良く、伊達で洒脱と思われていました。その趣味が相当の水準に達した時には「道楽の境地」などと洒落た言い回しをしました。

 それがいつしか、仕事や本業そっちのけで遊び呆けることを表す言葉に転じていきました。「道楽」は軽い趣味の域を越え、度を越した放蕩な趣味への没頭を表すのが現代的な意味ですね。

 仏教では「楽」には「道楽」と「俗楽」の二種類あり、刹那的な「俗楽」におぼれることなく、迷いを脱して、仏道を願い求めて「道楽」に達することを説きます。

 人間、なかなか仏教的な「道楽」の境地には達することはできません。目の前にある「欲」や「俗楽」の誘惑に負け、現代的な「道楽」人生に陥ってしまいます。

 余談ですが、江戸時代の「三大道楽」は園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽だったそうです。園芸道楽の人気は、初期はツバキとキク。やがてツツジ、アサガオ、ランが加わり、大名は競い合って庭園造りに熱中し、庭石や樹木を収集。「道楽」が悪い意味に転じていく片鱗が伺い知れます。

 釣り道楽は、船を浮かべてのキス釣りが一番人気。泊まりがけの釣りは旦那衆の贅沢な趣味だったそうです。文芸道楽は、俳諧、和歌、紀行文等々、いろいろなジャンルがあったそうです。道楽は隠居してからが特に本格的になったそうです。

 日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

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