耕平さんかわら版   202号(平成31年4

  

 

 皆さん、こんにちは。ゴールデンウィークが待ち遠しい季節になりました。でも、朝晩は冷え込む日もあります。平成最後の月。くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てば幸いです。

 新年度になり、就職転勤、入学や転校で新たな生活を始めた人も多いと思います。新しい同僚や新しい友人との出会い、新しい世界の始まりです。

 この「世界」も仏教用語です。一昨年十月のかわら版でお伝えしました。

 「世界」という言葉は英語の「ワールド」の日本語訳として用いられますので、これが仏教用語だとはなかなか気づきません。

 仏教では「ひとりの人間にはひとつの世界がある」と教えます。一人ひとりに世界があるというのです。「自我」「自分」というものを中心(国王)として、見渡す限りを自分の世界(領土)と考え、何でも思い通りにしたい、好きにしたいと、「欲」や「執着」に囚われます。

 自分に関係の深いもの、自分が好むものを近くに置き、関係の浅いもの、自分が嫌いなものを遠くに置くという「自我の遠近法」で支配された「世界」です。

 誰もが同様に一人ひとりの「世界」があること、その「世界」に囚われていることを理解していれば、日頃の人間関係も変わってきそうですね。

 「自分」の「世界」の「欲」や「執着」に囚われれば、別の「世界」を持つ他人が納得するはずがありません。「世間(せけん)」は難しいですねぇ。

 この「世間」も仏教用語です。「世間体が悪い」「世間に顔向けができない」「世間の物笑いの種になる」などの使い方がされます。「世の中」「社会」という意味で使われています。

 「世界」の本来の意味から「世間」を考えると、一人ひとりが持っている「世界」と「世界」の「間」ということです。

 「世間体が悪い」とは、自分の価値観や判断基準で判断しているから「世間体が悪い」のです。他の人の「世界」からの見られ方を自分の「世界」の価値観や判断基準で勝手の想像しているわけですから、ずいぶん自分の「欲」や「執着」に囚われているとも言えますね。

 「世間」という仏教用語に「出」をつけて「出世間(しゅっせけん)。これも仏教用語です。自分の「欲」や「執着」に囚われる「世間」感から解放されて、「世間」を越えた「世界」、すなわち仏や菩薩の覚った境地のような「世界」を「出世間」と表現するようです。

一昨年の九月には「出世」という言葉もご紹介しました。世の中や「世間」を超越し、覚りの境地に至ることが「出世間」「世に出る」「出世」と言います。そういう人は、道理をわきまえ、「欲」や「執着」に囚われない、感謝と謙虚の気持ちに満ちた人でしょう。そういう人になりたいものです。

かわら版も「世間体」を気にすることなく頑張ります。それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

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