耕平さんかわら版   211号(令和2年1

  

 

  あけましておめでとうございます。かわら版、今年もよろしくお願いいたします。

 日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて丸三年、そろそろ違う内容に変えようかと思っていましたが、多くの読者の皆さんから「もっと続けて」とのご要望をいただきましたので、今年も日常会話に含まれる仏教用語についてお伝えしていきます。

 嬉しい悲鳴とも言えますが、日常会話に含まれている仏教用語はほんとうにたくさんあるので、この調子だといつ終わるかわかりません。嬉しいですが、何だか微妙な気分です。

 ここで使った「微妙」。これも仏教用語です。

 仏教用語的には「ミミョウ」と発音します。仏教徒には馴染みの深い「三帰依文(さんきえもん)」という宣言文。これは、仏・法・僧の「三宝(さんぽう)」に帰依することを誓う決まり文句のようなものですが、その中に「無上で甚深(じんじん)にして微妙(みみょう)なる法」との出会いが大切です、と説かれています。

 お経にも「微妙」はけっこう登場します。「無量寿経」というお経には「微妙の法を説きたもう」、玄奘三蔵が訳した「説無垢称経(せつむくしょうきょう)」には「微妙なるはこれ菩提なり」などと説かれており、ほかにも随所に使われています。

 仏の慈悲の心は「深遠微妙(じんのんみみょう)」であり、その説法は「微妙法音(みみょうほうおん)」とも言います。

 つまり、「微妙(みみょう)」とは、言葉では言い尽くせない奥深いこと、人間の理解を超えた不思議さを表す言葉として使われています。

 したがって、仏教的には本来、素晴らしいこと、人智を超えた感覚、あるいは絶賛を表す意味で使われていますが、現代の使われ方は「微妙(ビミョー)」ですよね。

 「調子どう?」「う〜ん、ビミョー」、「これ美味しい?」「ビミョー」という感じの若者の会話が思い浮かびますが、中高年の皆さんも最近は「これ、ちょっとビミョーだね」などとごく普通に使ってますね。

 道理のわかった人、深い知恵をもつ人は、小さなことにこだわらず、広い心で、全体を眺めながら、穏やかに、いろいろなことを考えています。そういう心が「微妙(みみょう)」な心。小さなことにこだわって、自分の意に合う合わない、趣向に合う合わないで、「これは微妙(ビミョー)」などとは言いません。

 現代の微妙(ビミョー)は英語では「デリケート」。何とも判断がつかず、少し否定的な意味を込めているのが現代の微妙(ビミョー)です。

 仏の広い心は、生身の人間には理解しきれない(理解したら、仏になります<笑>)、身につけられないので、微妙(みみょう)な覚りは人間には微妙(ビミョー)なのかもしれません。

 微妙(ビミョー)な人間関係や社会の姿を、広く深い心で受け止めれば、微妙(みみょう)な気持ちで心穏やかに過ごせます。

 それでは、また来月お会いしましょう。

kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban kohei -san kawaraban