耕平さんかわら版   214号(令和2年4

  

 

 皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですが、新型コロナウィルス感染症の影響で大変なことと思います。油断せず、くれぐれもご自愛ください。

 このかわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいます。

 毎年春の風物詩、甲子園の選抜大会も新型コロナウィルス感染症の影響で中止。高校生球児の皆さんも残念だったと思います。夏の甲子園に向けて、頑張ってください。

 勝利を目指してひたむきに努力する高校生の姿は、いつも初心を思い出させてくれます。この「勝利」も仏教用語です。日常用語としては「勝ち」を表す言葉ですが、仏教用語的には「仏様からの勝(すぐ)れた利益(りやく)」という意味です。

 「勝利」すれば、その一方では必ず「敗北」があります。誰かが勝つことは、誰かが負けること。

 一昨年のかわら版では「悲願」という仏教用語もご紹介しました。「悲願の優勝」という言い方をしますが、嬉しいはずの優勝が「悲しい願い」というのは何だか変ですよね。

 誰かの「勝利」や「悲願」の一方で、必ず誰かの「敗北」があります。他人の悲しみを感じられる心、負ける人がいてこそ自分の勝ちもあることを理解する心、自分をとりまく全てのことに感謝できる心。その大切さを説いているのが仏教です。

 仏教用語としての本来の「勝利」は「勝(優)れた」「利益(りやく)」つまり「仏様からの慈悲や加護をいただくこと」です。仏様からの慈悲や加護をいただくと、「ああ、目には見えない何かに救われている、守られている」という感謝の気持ちが湧いてきます。それが「覚(悟)り」の境地です。

 「勝利」とは「覚り」のこと。仏教では「覚り」を得ることが「勝利」なのです。自分が得をしたとか、勝負ごとに勝ったことが「勝利」ではありません。

 ちなみに「悲願」は「阿弥陀仏の本願」。つまり、人間が「覚り」を得て救われることを阿弥陀仏は願っていますが、人間が人間である限り「欲」や「業」から解放されて「覚り」を得ることは難しく、かなわぬ願いだから「悲しい願い」なのです。

 自分の夢や目標が達成される時、つまり試験に合格したり、試合に勝ったりする時には、誰かが不合格になったり、負けたりしているのです。

 人の痛みに思いが至るようになるとともに、自分が合格したり、何かの目標を達成できることは、多くの人に支えられ、目には見えない何かに守られてそれが達成されていることを理解すること、それを「覚る」ことが、仏教における「勝利」なのです。

 日常用語化した「勝利」や「悲願」についても、このように深く考えると仏教用語的な深い意味が垣間見えます。感謝と謙虚の気持ちで身の回りの全ての出来事を受け止めること。それが本当の意味での「勝利」です。

 それではまた来月、ごきげんよう。

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