耕平さんかわら版   219号(令和2年9

  

 

 皆さん、こんにちは。暑い日が続きます。コロナと熱中症に気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

 かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

 食欲の秋、スポーツの秋など、秋は季節がよいので様々なことに集中するのによい季節ですね。美食三昧、スポーツ三昧。今年はコロナが気になって外出気分にならない人は、読書三昧もいいかもしれません。

 さて、ここで登場した「三昧」も仏教用語です。日常会話では「ざんまい」と濁って発音しますが、仏教用語としては濁らずに「さんまい」と言います。

 サンスクリット語の「サマーディ」の音写であり、精神を集中して深まりきった状態、心をひとつのことに集中させて安定した精神状態になることをいいます。

 「三昧」は仏教の荒行の名前にも登場します。

 「常座三昧」は九十日間、眠気を覚ますための歩行、食事、トイレ以外は結跏正座して座禅を続けます。

 「常行三昧」は九十日間、一日二十時間以上念仏を唱えながら堂内を歩き続けます。仮眠は立ったまま二時間以内だけ許されます。過去には、修行したまま即身成仏した(お亡くなりになった)僧もいたそうです。

 以前からお伝えしているように、日常会話に定着した仏教用語は、往々にして本来の良い意味とは逆になっている場合が多いです。

 「三昧」も同様で、仏教用語的には安定した精神状態を指しますが、日常会話的な「三昧」は「度が過ぎる」というやや悪い語感も含まれています。何かに没頭して、我を忘れて、熱中し過ぎている印象です。

 美食三昧もいいですが、度が過ぎて健康を害するような美食三昧はからだの毒。要は程度の問題。貪欲を戒めています。油断大敵ですね。

 と言ったこの「油断」も仏教用語。「涅槃経」(ねはんぎょう)というお経の中に「お釈迦間の教えを守り続けていくことは、中途半端な気持ちではできない。それはあたかも、王様の命令で家臣が油を注いだ鉢を持って遠い道を歩かされ、『鉢を傾けて一滴でも油をこぼしたらお前の命を断つぞ』と言われている状況と同じくらい気の抜けないことである」という喩え話が登場します。

 比叡山には「不滅の燈明」があり、これを万が一にも消さないように、当番のお坊さんが油を決まった時間に注ぎ足します。うっかり油を注ぎ忘れ、火が消えることを「油断」と言います。当番のお坊さんを戒める意味で「油断」という言葉ができたとも聞きました。

 かわら版も仏教用語三昧。勉強するのはよいですが、勉強ばかりで実践が伴わなければ意味がありません。勉強三昧に油断することなく、実践しなければなりません。

 それではまた来月、ごきげんよう。

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