耕平さんかわら版   223号(令和 3年1

  

 

 あけましておめでとうございます。去年はコロナで大変な一年でしたが、早く収まってほしいものです。寒さ厳しい折柄、くれぐれもご自愛ください。

 日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて五年目に入りました。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。かわら版、今年もご愛顧のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 日常会話に含まれている仏教用語についていろいろ書いていると勉強になります。人間はいかにあるべきか、人間はいかに生きるべきか、仏教用語の本来の意味から教えられることが多々あります。とは言え、所詮(しょせん)素人が趣味で書いていること。詳しくは本職のお坊さんに聞いてください。私は所詮、素人ですから。

 と、二度にわたって使った「所詮」も仏教用語です。日常会話的には「あれこれ言っても、結局は」とか「とどのつまり」「つまるところ」「畢竟(ひっきょう)」などの意味で使われています。

 仏教用語の「所詮」はずいぶん意味が異なります。そもそも「能詮(のうせん)」という言葉と常にセットで使われていました。「所詮」は日常会話の中に浸透しましたが、「能詮」は普及しませんでした。不思議ですね。

 仏教には「八万四千の法門」と言われるように、非常に多くの教えやお経があります。その中で説き明かされる内容が「所詮」、その内容を説き明かす言葉や文字が「能詮」です。

 漢字的に言えば、「所」は「される」という受動を示すもの、「能」は「する」という能動を示すもの。したがって、「所詮」は説き明かされる意味や内容、「能詮」は説き明かすための文字や文章を指します。ちょっと難しいですね。

 平たく言えば、「所詮」はお経や仏教が教えている内容、「能詮」はお経そのものやその中に書き記されている文字や文章のことを指します。

 昨年までにお伝えしてきましたように、日常会話の中の仏教用語は、不思議なことに、本来の意味とは逆の意味で使われていることが多いのです。

 「所詮」はつまりお経の教えの内容なので、本来は「素晴らしいもの」という意味。しかし、日常会話で使われている「所詮」は「一見素晴らしそうだけれども、実は大したことないもの」というような否定的な語感を含んでいますね。

 「あの人は立派な人だ。所詮、学者だから(だって学者だから、素晴らしいのは当然だよね)」というのが本当の使い方です。

 ところが、日常会話では「あの人は立派な人だけど、所詮学者だからね」と否定的な使い方をされます。

 人間は、自分の価値観や先入観にとらわれ、とかく他者の価値観や自分と異なる意見を否定的に捉えがちです。それは、人間の業(ごう)、性(さが)とも言えます。だからこそ、争いごとや意見の対立が生まれます。「所詮、人間はその程度のもの」は日常会話の使い方、「所詮、人間だからそれを乗り越えられるはず」は仏教用語的な使い方。

 所詮、仏教用語。されど、仏教用語。日常会話の中の仏教用語の本来の意味を知ることで、人生を豊かなものにしたいですね。それではまた来月、ごきげんよう。

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