耕平さんかわら版   233号(令和 3年11

  

 

 皆さん、こんにちは。早いもので十一月。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。

 かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

 最近は電子マネーやスマホ決済が普及し、世の中どんどん進みますね。新しい技術や製品が開発され、中高年にとってはついていくのがひと苦労です。

 さて、この「開発」も仏教用語です。仏教用語的には「かいほつ」と読みます。

 人間は誰でも仏性(ぶっしょう)を宿しています。その一方、仏性に反するような「欲」や「執着」も一緒に宿しており、仏性に従って生きていくのはなかなか難しいことです。

 仏性を「開き発せしめる」ために、修行をし、仏道を学びます。しかし、人間が人間である限り、「欲」や「執着」から逃れることはできず、成仏する(仏に成る、つまり覚る)のは命が尽きる時です。

 このように、仏教で用いられる「開発」とは、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開き、「覚(悟)り」に至ることを意味する言葉です。

 この仏教用語としての「開発」からの転用で、自然や技術を利用して、人間により有用なものを生み出す行為が「開発(かいはつ)」と呼ばれるようになり、一般化していきました。

 そういう使われ方はかなり古い時代から登場しています。たとえば、中世には既に「新田開発」という表現が登場しました。原野などの未開地を、新しく開墾する際に使われました。

 明治以降、それがより定着し、戦後の高度成長期には現世的な幸福の代名詞として「開発」優先の考え方が人間を支配しました。

 仏教用語としての「開発」は、日常会話で使われる「開発」とは真逆ですね。自然を破壊し、人間の豊かさだけを追求する行為が、結果的に様々な災禍につながっています。

 仏教用語的な「開発」は仏性を開くことであり、「欲」や「執着」から解放され、全てのものに感謝する生き方です。そうであれば、自然や他の生物に害を及ぼす開発至上主義に陥ることはありません。

 一方、日常用語としての「開発」は、むしろ人間の「欲」や「執着」を満たすために自然や他の生物を脅かすことにつながっています。

 最近、諸外国では、人間と他の生物、自然の万物共生を目指し、貧困や環境破壊、感染症など、あらゆる問題と関わりをもち、物心両面の真の開発(かいほつ)に取り組む「開発(かいほつ)僧」という仏教者が増えていると聞きます。

 自然に対して謙虚になること、自然に対して感謝すること、そのうえで他の生物と共存すること、それこそが仏性を「開発(かいほつ)」する人間の生き方です。

 それではまた来月、ごきげんよう。

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