参議院議員・大塚耕平(Ohtsuka Kouhei)がお送りする政治経済レポートです
8月1日に米国(ニューヨーク)から戻ってきました(米国での日程等につきましては、僕のホームページで7月分の活動日誌をご覧頂ければ幸いです)。現政権(共和党)関係者、民主党関係者双方、ならびにグリンスパンFRB議長などと、たいへん有意義な意見交換ができました。こうした機会を定期的にもつことの必要性を痛感しました。明日(9日)からは台湾を訪問し、李登輝前総統などにお会いしてきます。
渡米中に、欧州(ジュネーブ)ではWTO(世界貿易機関)の会議(新ラウンド)が開かれ、新しい枠組みがとりあえず合意に達しました。参加国・地域が20以上も増えましたが、まだまだ問題含みのようです。
政府広報紙のようなある新聞によると、「コメなどの重要品目を大幅な関税削減の例外扱いとすることができた」、「ミニマムアクセスを拡大すると受け取れる表現を削除することができた」、「日本にとって有利な内容となった」と報道されていました。「日本にとって有利な内容」とは、どのような内容でしょうか。
(ご参考)ミニマムアクセスとは、特別に保護されている農産物について、無税か低い関税率で一定量の輸入を義務付ける制度です。つまり、保護の見返りとしての、最低限の輸入義務付けということです。
ジュネーブには、日本の農林族議員が出向き、デモンストレーション(示威行動)を行ったそうです。別の新聞によれば、議員団は、「要求は全部勝ち取る」、「国益が守れないなら合意できない」という発言を繰り返していたそうです。WTOには政府代表団が参加をしているわけですが、「要求」とは、誰の誰に対する「要求」でしょうか。「国益」とは、どんな「国益」でしょうか。
今回の合意では、コメの490%の関税率は維持されました。実は、コメ以上の関税率の農産物もあります。こんにゃく芋のなんと990%、落花生の500%という関税率も守られました(「守る」という表現が適切かどうか定かではありません)。
たしかに、国内の産業を守ることは必要です。それは農業に限ったことではありません。そうした対応の適否は、その産業を守ることが「国益」に合致するか否かで判断されるべきでしょう。
コメを例にとると、2つの視点があります。ひとつは、生産性です。490%の関税率ということは、要は海外産のコメに比べて約6倍のコストでコメを作っても採算がとれることになります。農家の生産性は向上せず、日本のコメ産業の国際競争力はドンドン低下します。これでは、「国益」にかなっているとは言えないでしょう。
「コメ農家は守らなくていいのか」という族議員の皆さんの声が聞こえてきそうですが、もちろん、コメ農家を守ることは別の意味で必要だと思います。しかし、過度の高関税率の維持は、コメ農家の生産性と国際競争力を低下させるため、そういう視点からの「国益」には反します。
もうひとつの視点は、安全保障です。安全保障というと、すぐに軍事的なことを連想する方が多いと思います。「国民の生命と財産を守る」ことが政府の役割だとすれば、安全保障は軍事的な面ばかりではありません。例えば、食料安全保障、エネルギー安全保障という言葉があるように、食料やエネルギーの確保ができなければ国民の生命を守ることはできません。農業政策やエネルギー政策も安全保障政策の一部と言えます。
では、安全保障の視点から考える場合、コメの高関税率を維持することは「国益」に合致するのでしょうか。「基本的には」イエスだと思います。但し、「基本的には」です。
「食料自給率を維持するためには、コメ農家を守ることが必要であり、そのためにコメに高い関税率をかけるのは当然」というのが、よく聞かれる食料安全保障論を展開する皆さんのロジックです。「基本的には」理解できる主張です。
ところが、実はこの「食料自給率」というのが、なかなか厄介な概念です。日本の「食料自給率」は40%と言われています。これは、食料全体のカロリーベースの「食料自給率」です。金額ベースでは70%になります。また、主食である穀物自給率は重量ベースで表示され、60%強です。しかし、飼料用を含む穀物全体になると30%弱に低下します。さて、どの概念を用いて議論すべきでしょうか。
また、カロリー、重量、金額、いずれのベースであっても、「食料自給率」を算出する際の分母は、現に国民に提供されている食料の総量を用いています。しかし、1人当たりに換算(カロリーベース)すると、日本人はインド人の10倍、米国人はインド人の20倍の食料を消費していると言われています。また、食欲に個人差がある(過食、小食の人もいる)ことを勘案すると、人によっては平均的インド人の数十倍を消費しているケースもあるでしょう。そういうことを考えると、現に消費している総量をベースにすることは、はたして適切と言えるのでしょうか。
このメルマガでは、政策の「目的」と「手段」の組み合わせの話を繰り返してお伝えしています。そもそも、食料安全保障とは政策の「目的」を指しています。「目的」達成のための適切かつ効率的な「手段」は、農産物への高関税率維持なのでしょうか。
「食料自給率」は、「目的」と「手段」の組み合わせの適切さを測る指標(バロメーター)です。高関税率を維持している一方で、食料自給率が改善しないのは、「手段」の選択が適切ではないからかもしれません。
さらに言えば、「食料自給率」をバロメーターとした食料安全保障政策は適切なのでしょうか。食料供給国と良好な外交関係を維持することも、広い意味での食料安全保障政策です。国民の過食体質を改めることも、食料安全保障政策の範疇に含まれるかもしれません。過食体質の是正は、成人病の発症率を低め、医療費の軽減に繋がります。そのように考えると、成人病発症率、医療費水準というのも、食料安全保障政策の指標として役立つような気がします。
よく聞かれる食料安全保障論のロジックを、「基本的には」理解できると申し上げたのは、以上のように食料安全保障の考え方には様々な切り口があるからです。どうも日本の食料安全保障論は、パターン化され過ぎているような気がします。
生産性や国際競争力の向上に寄与し、かつ食料安全保障にも貢献する農業政策とは、農家の生産意欲を高め、若い農業後継者がドンドン育つという政策です。正反対の状況が深刻さを増しているということは、過去及び現在の農業政策が適切ではない蓋然性が高いからと言わざるを得ません。
民主主義とは、様々な利益集団が自己主張を行い、多数決によって利害を調整し合うことです。業界団体が業界の利益を守ろうとすることは、別におかしなことではありません。
族議員という言葉は「自分の専門とする分野の業界の利益を守る議員」と理解されています。これは「悪い族議員」です。全ての国会議員が全ての政策分野に精通することは不可能です。したがって、専門分野を持つこと、事情に精通した業界を持つことは必要です。そういう意味では、誰でも族議員でなければなりません。専門性ゼロの国会議員は無用の長物です。しかし、「業界の利益を守る」ためだけに、その専門性を発揮するのは大きな間違いです。
国会議員には、日本の「国益」とは何かを考え、自分の専門分野や精通した業界に係わる政策を「国益」に合致した方向に誘導することが求められています。業界の要求が「5」ある時に、「国益」に照らすと「3」や「4」程度で我慢しなくてはならない、今の我慢が先の「6」にも「7」にもなることを、その専門性を発揮して業界を説得する指導力が求められています。そういう行動をとる族議員は、「良い族議員」です。
「要求は全部勝ち取る」、「国益が守れないなら合意できない」という発言は、「悪い族議員」の発言でしょうか、それとも「良い族議員」の発言でしょうか。一概には断定できませんが、深く考えてみる必要があります。
今回の会合では、アメリカ、EU、ブラジル、インド、オーストラリアの5カ国・地域が、G5として主導的に意見調整する手法が採用されました。食料輸入国はひとつも含まれていません。また、日本の亀井善之農水大臣は、EUのフィシュラー農業担当委員やアメリカのゼーリックUSTR(通商代表部)代表との個別会談を求めましたが、実現しませんでした。
族議員には、こういう時こそ専門性と人脈の豊富さを発揮し、「輸出国だけでは貿易は成り立たない」ことを主張し、「世界最大の輸入国日本との個別会談の重要性」を理解させるようなロビー活動を期待したいものです。
繰り返しになりますが、業界団体が業界の利益を守ろうとすることは、別におかしなことではありません。しかし、業界団体が本当にその業界に属する国民の利益を守る行動をとっているかどうかは、それぞれの業界に属する皆さんはよくチェックする必要があります。
業界団体自身の利益、業界団体幹部の利益、業界の所管官庁の利益、所管官庁の幹部の利益、族議員の利益だけを守っているのは「悪い業界団体」です。
業界を支えている現場の皆さん、業界の発展に尽くしている業界団体は「良い業界団体」です。当たり前のことですが、意外にその実態が理解されていません。
例えば、農業。農業団体の指示どおり、つまり農水省の指示どおりにしていると、作りたい農産物を自由に作れず、売りたい農産物を自由に売れない、買いたくない農業機械を買わされ、使いたくない肥料を使わされる。こういう状況で農家の生産意欲が上がるはずもありません。
そういう農業団体であれば、農家の皆さんは農業団体を自ら改革する必要があります。農業団体を直接改革するのが困難であれば、所管官庁や政治を改革するために頑張って頂く必要があります。
農水省管轄下の農中(農林中央金庫)の機関誌「農林金融」の昨年8月号に、「日本型農協は自立できるか」という寄稿(太田原高昭北海学園大学教授)が載っていました。「農協は、食管制度の廃止と生産調整の見直しによって国にとっての必要性が薄れ、使い捨てされようとしている」と書かれています。ちょっとビックリです。変化の予兆を感じます。
業界を支えている現場の皆さんや業界団体の変化の方が、所管官庁や族議員の変化より早いかもしれません。そうでなければ、日本の農業と日本国民の食料安全保障には、危機的な未来が待ち受けています。
政官業の「鉄のトライアングル」の弊害が指摘されるようになって久しいですが、一刻も早く、業の官からの自立、政の適切な公共的役割の確立、官の勘違い(自分たちが国を統治しているという勘違い)の是正を実現することが必要です。
(了)