参議院議員・大塚耕平(Ohtsuka Kouhei)がお送りする政治経済レポートです
梅雨の季節になりました。健康にご留意ください。相次ぐ役所の不正、企業の不祥事など、税金のムダ遣いにつながるニュースが後をたちません。限られた財源が正しく使われていないために、教育などの政策財源が不足します。財源不足だけが原因ではありませんが、若い世代の荒廃や学校現場で起きる事件には、大人社会の実情が影響を与えていると思います。事態は深刻です。
事態の深刻さと現在起きている変化を理解するためには、税金の本質的な意味を考えてみることが有益です。
私たちの財布の中には3種類のお金があります。円とドルとユーロではありません。それは、自分のお金と税金と社会保険料です。
そもそも、政府という存在が登場する前は、財布の中には自分のお金しかありませんでした。稼いだお金は当然のことながら全部自分のお金です。
しかし、橋や道路などの「公共財」は、誰もこれを自発的に造ろうとはしません。そこで、政府が登場し税金を集めるようになりました。全員が恩恵を受けるのですから、税金として「公共財」を造る財源を集めるという理屈です。
政府の仕事の種類が増え、その規模が拡大してくると、税金だけでは足りなくなりました。そこで、政府が目をつけたのは保険料です。
近代になると、地域や職域において、今で言う互助会、共済会などの組織が自然発生的に誕生しました。目的は様々ですが、そのひとつが病気やケガ、老後に備えた保障のための組織。この保険料を政府が預かって管理運用することになったのが社会保障制度です。
とくに年金保険料は政府にとっては使い勝手のいい財源です。制度がスタートした当初は高齢者が少なかったので、集めた年金保険料を支払うのは数十年後。その間は自由に使えます。
税金をムダ遣いせず、それでも財源が足りなくて保険料に目をつけたというなら仕方ありません。しかし、ムダ遣いを続けるために新たな財源=保険料に目をつけたというなら困ったものです。
自分のお金と税金と社会保険料、この3つのうち、税金と社会保険料は政府に渡ります。この規模が大きくなり過ぎたので、企業も個人も自分で使えるお金が減って困っているのです。
日本で社会保障制度が導入されたのは1930年代。使い勝手のいい財源獲得手段としてスタートしました。
ピンときた方もいらっしゃると思いますが、集まった財源は戦費に使われたと言われています。もちろん、戦費調達だけが目的ではなかったと思いますが、お金に色はありません。結果として戦費に回ったことは否めません。「意外な過去」です。
社会保障制度がスタートした経緯は国によって異なります。もっとも早かったのはドイツ。1883年、有名なビスマルク首相によって導入されました。当時のドイツは、産業革命によって経済大国になったイギリスに追いつくために、国民に過酷な労働を強いました。そこで、「病気になったり、ケガをしても安心、老後も心配ありません」ということを国民にアピールするために導入された、いわゆる「アメとムチ」政策です。
イギリスでは、1700年代後半に職域団体(ギルド)を中心に自発的な互助会、共助会的組織が誕生。これらの組織では、政府や雇い主が分担金を払うことを拒絶していました。運営資金を分担してもらうと、政府や雇い主の意見を聞かなくてはならなくなることを気にしていたようです。
しかし、ドイツが急速に追いついてきたため、ドイツへの対抗上、1911年に国民保険制度をスタートさせました。
1900年代に世界の経済大国になったアメリカは、終身雇用、企業内教育、企業内福利厚生が充実し、まるで日本の高度成長期のようだったと言う専門家もいます。しかし、1929年の大恐慌による大量失業発生、ドイツやイギリスでの社会保障制度充実などを受け、議会が1935年に社会保障法を可決。それでも、今日に至るまで、アメリカでは企業や個人が自己責任で病気やケガ、老後に備えることが大原則であり、欧州や日本のような大規模な社会保障制度は導入していません。
さて、ドイツ、イギリス、アメリカなどのこうした動きに加え、欧米諸国と対立を深めていた日本は、1922年に健康保険制度、1936年に年金制度を導入。戦後も制度は継続し、徐々に拡充されてきました。1961年に医療・年金の国民皆保険が実現、1973年には年金に物価スライド制が導入されて「福祉元年」と言われました。
しかし、1980年代には早くも医療も年金も財政破綻が危惧されるようになり、度重なる制度の微調整を経て今日に至っています。日本の社会保障制度が輝いていたのはわずか10年間程度。意外に知られていません。
そして、社会保障制度が使い勝手のいい財源調達手段としての「遺伝子」を引き継いでいるところに、社会保険料のムダ遣いのルーツがあります。
自分のお金と税金と社会保険料。このうち、自分のお金は実際に使うお金と貯蓄に回すお金に分かれます。貯蓄する先は銀行や郵便局です。
問題は銀行や郵便局が預かったお金を何に運用しているかです。かなりの額を国債に運用しています。
銀行も郵便局も、皆さんが一斉にお金を引き出そうとすると国債を売って換金しなくてはなりません。数百兆円という規模ですから、おそらく買い手が見つかりません。その場合、銀行も郵便局も経営破綻することでしょう。
つまり、自分のお金のうち、貯蓄に回っているお金、とりわけ結果として国債運用に回っているお金は、いざという時にひょっとすると「自分のお金であって、自分のお金ではない」という事態が発生するかもしれません。
貯蓄を経由して国債運用に回っているお金は、税金や社会保険料と同様に政府に渡っています。つまり、4種類目のお金と言えます。
本当に自分で使えるお金、自分のお金だけど国債運用に回っているお金、税金、社会保険料。4種類のお金のうち3種類が政府に渡っています。それらのムダ遣いが放置されているとすれば、経済がうまく回らないのは当然のことです。
銀行も郵便局も、預かったお金を国債運用に回す割合を減らすような改革が必要です。そのためには、政府のムダ遣いを減らしていくことが不可欠です。ムダ遣いを減らさないまま国債運用額を減らせば、結果として政府が破綻することになります。
現在、郵政民営化が国会で議論されています。民間会社となった郵政公社が「民間会社だから何に運用するかは自由です」という理屈で、国債運用額がますます増えていくことを懸念しています。政府のムダ遣いを減らす一方で、郵政公社の規模を小さくし、本来求められている公共サービスを提供する組織として正常化することが期待されます。
税金や社会保険料だけでは足りないので、4種類目のお金で財源調達しようとしているのが今起きている変化です。国民に分かりにくい仕組みで新たな財源を調達し、いったい何に使うのでしょうか。ムダ遣いを放置したまま、教育などの政策財源の不足に手を打たないようであれば、本当に嘆かわしいことです。学校現場で起きている事件が、何やら大人社会への警鐘のように思えてなりません。
諦めずに、引続き、ムダ遣いと闘います。
(了)