参議院議員・大塚耕平(Ohtsuka Kouhei)がお送りする政治経済レポートです
2001年6月6日からスタートしたメルマガも100号になりました。ご愛読頂いております皆様に心から御礼申し上げます。100号の節目に、このメルマガで一貫して大切にしている視点について改めて整理させて頂きます。
ロンドンでテロ事件が起きました。犠牲になられた方々、家族の皆様、イギリス国民に心から哀悼の意を表します。
テロは断じて許されないことです。しかし、現象面から言えば、テロは「結果」であり、その「原因」が解決されない限り、完全になくなることはないでしょう。テロリストの掃討は、言わば対症療法であり、根治治療ではありません。
もちろん、どんな「原因」があっても、テロが正当化されるものではありません。しかし、テロという人類の苦しみを解決するためには、その「原因」を取り除く努力が必要です。容易なことではありません。
テロリスト側はテロではなく正当な戦争と認識していることと思います。この認識ギャップもテロが続く「原因」のひとつです。そして、その背後に、認識ギャップを生んでいるさらなる「原因」があります。深い洞察と分析なくして、これらの「原因」に適切にアプローチして解決することはできません。
経済の分野でも、デフレは「結果」なのか「原因」なのかを考え続けています。「原因」説を主張する向きもありますが、個人的には「結果」説に収斂しつつあります。国内経済の構造変化、中国の影響のみならず、弛緩し続ける財政政策、異常な緩和政策を続ける金融政策、つまりマクロ経済政策の失敗の「結果」という側面が強いのではないでしょうか。
日本の政策や経営は、時として「目的」と「手段」を取り違えます。最近のメルマガで取り上げている東京証券取引所の自主規制機能問題も同じです(Vol.96<2005.5.14>参照)。
公正で信頼できる証券市場を維持することが証券法制の目指す「目的」であり、東証の自主規制機能はそのための「手段」です。
時代と環境は変化しています。かつては適切な「手段」であったものも、往々にして時代遅れとなり、環境に適合しない「手段」となります。重要なことは、いかに適時適切に変化に対応していくかです。
郵政民営化法案についても「目的」と「手段」が混乱しています。郵政民営化が主張され始めたのは1980年代前半。郵貯・簡保によって集められる民間資金が財政投融資や国債を介して公的部門に渡り、ムダ遣いされていることを是正するのが「目的」でした。
ところが、今国会で審議されている法案の内容は、民営化によってもっと規模が大きくなり、その資金で新会社が自発的に財投債や国債を購入するリスクが高いと言えます。つまり、民間部門から公的部門に流れる資金の量がさらに増えるということです。これでは、本来の「目的」に寄与しません。
1980年代前半から既に20年。膨大な量の国債が発行され、その多くを郵貯・簡保の資金で賄っています。20年前と環境がガラッと変わっています。国債暴落を防ぎつつ、かつ本来の「目的」に資する「手段」は、郵貯・簡保の預け入れ上限額を引き下げて、まずは徐々に規模を縮小していくことでしょう。変化に適時適切に対応する柔軟さが必要です。
日本経済の長期低迷という「結果」をつくった「原因」のひとつは、不透明な政策形成過程にあります。とくに、日本経済を支えていた金融機関に対する旧大蔵省の「裁量」行政が顕著な例です。もちろん、他の分野、他の官庁も基本的には同じです。
官僚組織が情報を独占し、「裁量」によって政策を企画立案してきました。「由らしむべし、知らしむべからず」という官僚組織のスタンスは、まるで「国民は余計な口出しをするな」と言わんばかりです。
論語の原文は「子(し)日(のたま)わく、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむべし。之(これ)を知(し)らしむべからず」となっています。通釈では、「人民を政道に従わせることはできるが、一人ひとりにその内容を理解させることは難しい」とされています。官僚組織が「国民に徒に心配をかけることなく、自らの責任で職責を全うする」という意味でこの格言を尊んでいるとすれば理解できますが、「自分たちだけが賢く、政治、政策は自分たちが行うものだ」と思っているとすれば、その考えを正していかなくてはなりません。
国民が軽視されているだけではありません。国会も形式的に手続を整えるための「手段」にされています。法案の中身の検討は国会に上程する前の官僚組織内部の議論で事実上終了していると考えているようです。これでは、国会議員も国会自身も、官僚組織の「目的」を達成するための「手段」にすぎません。
こうした「裁量」行政を是正するために、「ルール」を明確化すること、そして国会で実質審議するという本来の「ルール」を徹底することを主張し続けています。
国会に上程された法案に間違いが発見されたら修正するというのが本来の「ルール」です。しかし、無謬性(官僚組織の判断に間違いはない)という悪しき固定観念に固執するあまり、明らかな間違いを指摘されても「解釈」という「裁量」で逃げようとします。今国会の会社法案や郵政民営化法案の審議の中で、その傾向が顕著に表れています。
表面上は多少改善が進んでいるようにも思えますが、最近、気になる傾向があります。それは「ルール」から「裁量」への回帰です。「ルールに基づいて行政を行っています。民間組織の自主ルールに委ねています」という表面上の姿勢の背後で、実は様々なかたちで圧力をかけているケースが増えています。法律の実質的な内容を政省令に過度に委ねることで国会審議を形骸化させる傾向も顕著です。政省令は官僚組織の「裁量」そのものです。「政省令はパブリックコメントにかけています」と言いながら、指摘された点を無視しているケースも少なくありません。これでは、パブリックコメントにかけたという手続を整えているにすぎず、国会審議を形骸化させている手法と同じです。
もちろん「ルール」というものも、解釈や適用の判断の際には結局「裁量」が必要になります。「ルール」と「裁量」のバランスが重要なのです。しかし、「ルール」を重視している振りをして、実際には「裁量」を強めるような動きは看過できません。十分に留意していきたいと思います。
「結果」と「原因」、「目的」と「手段」、「ルール」と「裁量」、いずれも絶対的な真理はありません。全ての真理は「相対的」です。深い洞察と分析、虚心坦懐な考察によって、適切な回答を見い出す努力を不断に続けていかなくてはなりません。今後もそういう視点から、時事問題や政策課題について情報をお伝えしていきたいと思います。
人間、誰しも自己否定することは容易ではありません。政策や制度に潜伏する過度な思い込みや不正を是正するためには、考える主体や判断する主体を時々変えることが必要です。目を変える、プレーヤーを変えるということです。
そういう意味から、「相対的」な世界を「相対的」に適切に運営していくためには、政権交代が必要だと信じています。これからも真摯に取り組んでいきます。
(了)