臨時国会が始まりました。1年振りに財政金融委員会筆頭理事のポストに復帰。しかし、立場は野党から与党に替わりました。与党筆頭理事として円滑な委員会運営に注力します。また、党務は広報委員長。政府・与党の政策面、組織運営面等の動きについて、正確かつ分かり易い広報に努めます。
先月公表された米大手証券会社のレポートによれば、世界の主要通貨の中で最も過大評価されているのはブラジル・レアル。
ブラジルのマンテガ財務相は「各国政府は輸出競争力強化のために自国通貨を操作しており、我々は国際的な通貨戦争の真っ只中にある」と述べました。
自国通貨安、輸出増加によって景気回復を目指すことは、経済学の教科書によれば「近隣窮乏化政策」。世界の主要国は、まさしく「近隣窮乏化政策」を競い合っている状況です。
そもそも「近隣窮乏化政策」という言葉が生まれたのは1930年代。1929年の世界大恐慌を契機に、主要国がこぞって輸出を増やすことによって不景気を乗り切ろうとしたことに端を発します。
当時は変動相場制ではありませんでしたが、実質的な通貨価値の変動を受けて貿易量が増減。また、輸出財となる資源と輸出先となる市場の獲得を目指して、主要国は植民地争奪戦を展開。つまり、貿易戦争が第2次世界大戦の原因のひとつとなりました。
そうした事実と反省に基づいて、第2次世界大戦の連合国側が構築した国際経済の枠組みがブレトンウッズ体制。
連合国側の勝利が確実になりつつあった1944年7月、米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズでその内容を決める会議が開かれたことから命名されました。
主なポイントは、固定相場(平価)制の採用、IMF(国際通貨基金)等の設立、国際収支赤字国に対するIMFによる資金提供、基軸通貨ドルの金兌換性の約束です。
しかし、戦後の日本や西ドイツの経済復興、輸出増加によって国際収支の国家間不均衡が拡大。ベトナム戦争等による米国の財政赤字拡大もあって、早くも1970年代にブレトンウッズ体制は限界に直面。
1971年、米国ニクソン大統領がドルの金兌換性を一方的に停止したこと(ニクソン・ショック)に端を発し、主要国財務相がワシントンのスミソニアン博物館で協議し、平価変更と変動幅抑制(上下2.25%以内)に合意(スミソニアン体制)。その際、円は1ドル360円から308円に切り上げられました。
しかしそれも長続きせず、1973年以降、主要国は順次変動相場制に移行し、今日に至っています。
1930年代の貿易戦争に端を発した世界の混迷。それから80年、2010年代の通貨戦争が新たな混迷につながらないようにする努力が必要ですが、日本だけに負担が皺寄せされる展開は回避しなくてはなりません。
1973年以降、主要国は順次変動相場制に移行。今日に至るまでの約40年間、欧州の通貨政策は大改革の歴史、日本の通貨政策は譲歩の歴史です。
欧州諸国ではスミソニアン体制の合意を継承。各国通貨間の為替相場の変動幅を上下2.25%以内に収める努力を続けました。
1979年、欧州諸国は欧州通貨制度(EMS)を構築。加盟国通貨のバスケット制による欧州通貨単位(ECU)を導入しました。複数の通貨を籠(バスケット)に入れ、かき混ぜて一種類にするイメージです。ECUはバスケット通貨と呼ばれました。
EMSは、経済大国となった西ドイツ・マルクの影響が強すぎたこと、英国が参加しなかったことなどの問題を抱えていましたが、欧州諸国はさらに統一通貨(ユーロ)導入を目指しました。
1999年、実際にユーロが導入され、20年に亘ったEMSは役割を終了。統一通貨の成否はまだ予断を抱けませんが、欧州通貨政策は、各国単位、ECU、ユーロという大改革の歴史を辿って今日に至っています。
一方、1973年以降の日本は、変動相場制の下でジリジリと円高が進行。それでも貿易黒字の減らない日本に対して、一段と圧力がかかりました。
1975年から始まった先進国首脳会議(サミット、G7)でも、毎年、日本に対して貿易不均衡是正と円高要求が繰り返されました。
1985年3月、ソ連でゴルバチョフ書記長が誕生し、米レーガン大統領との間で東西冷戦終結を模索。ソ連経済が軍事費負担に耐え切れなくなっていたことが背景にあります。
米ソのこうした動きは、西側陣営内の力学にも影響を与えました。つまり、アジアにおける西側の防波堤である日本に対する遠慮や配慮の重要性が低下。
1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで日米英独仏のG5(蔵相・中央銀行総裁会議)が開催され、円相場の大幅な調整に合意。プラザ合意です。
円は240円から一気に急騰、2年間で半分(倍)の120円まで上昇しました。
それから25年、四半世紀が経ちましたが、この間、断続的、波状的に円高が進行。1995年に79円75銭の最高値をつけ、今また80円割れ目前の展開となっています。
日本は、自らの通貨政策に関する譲歩の歴史に終止符を打つとともに、通貨戦争を激化させない努力が必要です。両立させなければなりません。
ニクソン・ショック以降、一貫して自国通貨安になっているのは米国。つまり、過去40年間、世界経済はドル安の歴史。その背景は米国の「双子の赤字」です。
貿易赤字と財政赤字をファイナンスするために、米国政府は国債を発行し続けなくてはなりません。国債によって調達した資金を政府が支出するため、米国債の増加は米ドルの増加。
米ドルの流通量が増え続ければ、需給バランスからドル安になるのは自明の理。その構造が今日も続いているということです。
一方、プラザ合意の頃までは日米欧3極構造が中心であった世界経済。今や、中国と米国のG2、日米欧露中印の6極構造と言われる時代になりました。
そうした中で、今年、GDP(国内総生産)で世界2位となる中国元を巡る通貨政策が当面の焦点であることは衆目の一致するところ。
中国元に対してプラザ合意的対応を行えば良いという単純な展開にはならないところに難しさがあります。
覇権国家の歴史を振り返れば、19世紀は英国、20世紀は米国。そして、21世紀の覇権国家が引き続き米国であるのか、あるいは中国がとって代わるのか。その戦いをしているのが現在の通貨戦争の舞台裏です。
覇権国家の条件は軍事力と通貨。つまり、「基軸通貨」の地位です。
米国が「双子の赤字」を抱えていても経済運営ができるのは、米ドルが「基軸通貨」であるからです。したがって、「基軸通貨」の地位を維持することは米国の最優先の国家戦略と言えます。
一方、中国が元切り上げに応じないのは、自国の通貨政策が他国の要求に屈すると、覇権国家への道のりの障害となるからです。そのことを認識しているために、世界最大の貿易黒字国、外貨準備保有国となった今でも、中国は元切り上げに抵抗しています。
1979年にヴォーゲル博士の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が日本でベストセラーになった後、21世紀は「日本の時代」と囃すムードもありました。しかし、通貨政策で屈する国に覇権が巡ってくることはありません。
もちろん、覇権国家を目指すか否かは国家の選択と歴史の妙。日本は覇権国家を目指す立場にありませんし、現在の状況では目指すべきだとも、目指すことが可能だとも思いません。
しかし、他国が日本の利益を守ってくれることはありません。日本は国際社会の主要国としての責任を果たしつつも、独立した立場と主張と戦略の下で、国家と国民の利益を守らなければなりません。
(了)