平成24年度予算が成立しました。とは言え、あくまで歳出予算のみ。歳入予算はこれからです。北朝鮮ではミサイルの発射準備が進んでいます。このメルマガを読んで頂く頃には既に発射されているかもしれません。内外とも問題山積。引き続き、全力で職責を果たします。
4月8日、朝日新聞4面に星浩編集委員の「政治考」というコーナーが掲載されていました。テーマは「消費増税」。
その中で、自民党の老舗派閥・宏池会の古賀誠会長のコメントが引用されています。宏池会は大平正芳首相につながる系譜。大平首相の晩年をちょっと振り返ってみます。
大平首相は財政再建のために消費税導入を提唱。その増税方針が響いて、昭和54年(1979年)の総選挙で自民党が過半数割れ。
総選挙後、自民党は主流派と非主流派の分裂状態に陥り、「40日抗争」に突入。直後の総裁選挙では大平首相と福田赳夫前首相が争い、138票対121票で大平首相が辛勝。第2次大平内閣がスタートしました。
大平内閣は事実上の「少数与党内閣」となり、翌昭和55年(1980年)5月、野党が提出した不信任決議案採決の際に非主流派が欠席。不信任決議案は可決されます。
大平首相は衆議院を解散。同年に予定されていた参議院選挙と投票日を同日にする衆参ダブル選挙を選択しました。
総選挙が公示された5月30日、新宿での第一声直後から体調を崩し、翌日入院。過労等が原因で6月12日に急死。享年70歳、48年振りの現職首相の逝去によって、衆参ダブル選挙は「弔い合戦」の様相を呈し、自民党は圧勝。
しかし、大平首相の逝去によって、その政治的主張であった消費税導入構想は頓挫。鈴木善幸・中曽根康弘内閣を経て、竹下登内閣の昭和63年(1988年)に消費税法案が成立。翌平成元年(1989年)4月、3%の消費税導入が実現しました。
大平首相の訃報はよく覚えています。大学2年生の時でした。亡くなったのは午前5時過ぎ。早朝の駅頭で号外を受け取り、現職首相の急死を知りました。
消費税を巡る政策論争は、長い経緯と背景を抜きにして語ることはできません。
「大平氏は、赤字国債を発行してしまった蔵相として罪の意識を強くもっていた。毎年の予算で税収を上回る国債を発行している。今の政治家はもっと危機感を持たなければいけない」
前述の朝日新聞「政治考」に引用された古賀会長のコメントです。戦後初めて赤字国債が発行されたのは山一不況の際の昭和40年(1965年)。
その後10年間は発行されませんでしたが、大平首相が大蔵大臣在任中の昭和50年(1975年)に赤字国債を再発行。以後、継続的に赤字国債が発行され、残高も累増。そうした経緯が、大平首相の「罪の意識」につながっていたのでしょう。
古賀会長は次のようにも述べています。
「財政赤字の大半は自民党が作った。民主党政権でも人気取り政治が続いた。私を含め、両党とも責任を感じなくてはいけない」
「財政を立て直すために、まず消費増税を実現させる。その後に、社会保障のあり方を論議して総選挙で民意を問えばよい。自民党は社会保障の削減を提起すべきだ。国民にとって耳が痛い話でもしなくてはならない」
いずれも、もっともな指摘です。同時に、「財政赤字の大半は自民党が作った」のは、どのようなメカニズムだったのか。何が原因だったのか。その点の認識を共有したうえで、是正をすることが急務です。
原因を分析すれば様々な整理が可能です。しかし、あえて大きな原因を2つあげれば、それは次のとおりです。
ひとつは社会資本(公共事業)の造り過ぎ。道路、ダム、空港、港湾、上下水道などのいわゆる公共事業は必要です。しかし、何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」。
手元にあるデータで計算すると、1960年から2006年までの47年間の名目GDP(国内総生産)の合計は1京3243兆4602億円。この間、毎年の一般政府総固定資本形成対GDP比から公共事業の総額を算出すると、681兆2897億円。比率にして5.1%です。
手元にデータのない1959年以降、2007年以後も加えると、おそらく約750兆円。しかも、これは「一般政府」分のみ。特殊法人、公社・公団、独立行政法人等の広義の公的部門が支出した分を加味すると、さらに膨らみます。
因みに、英米独仏伊5ヶ国の同期間の一般政府総固定資本形成対GDP比は約2%から3%の間に収まっています。仮に日本も3%であったとして計算すると、公共事業額は400兆7586億円。
実に他の分野に280兆5311億円を使うことができた計算になります。教育、科学技術開発、産業振興等に投資していれば、今頃は、人材、先端技術、医療、農業など、多くの分野で日本は躍進していたでしょう。残念なことです。
財政赤字拡大のもうひとつは社会保障。年金、医療、介護などの社会保障はもちろん重要です。これからも充実していく必要がありますが、優先順位付け、濃淡はつけなくてはなりません。
現在の財政事情、これからの人口構造を考えると、社会保障であれば、どんなことでも認められるという状況ではありません。
ここでクイズです。歴代首相の中で、予算編成の軸足を社会資本(公共事業)から社会保障(年金、医療など)に移した首相は誰でしょうか。因みに、その首相の時に、社会保障費が公共事業費を上回りました。
答えは田中角栄首相。「日本列島改造論」を打ち出し、「ブルドーザー」とも呼ばれた田中首相は公共事業の代名詞のような存在。意外と思われた方が多いでしょう。
このテーマは、僕が博士論文を書くときの調査事項のひとつでもありました。拙著「公共政策としてのマクロ経済政策」(成文堂)の290頁には次のように記しました。
「田中内閣は、老人医療費の無料化、健康保険法改正による家族給付率の引上げ、高額医療費の新設、5万円年金、インフレ手当の支給、児童扶養手当や生活保護費の引上げ等、次々と福祉予算を拡大した」
当時は、経済も成長し、税収も増加傾向。社会保障も充実していませんでしたので、政策の方向性としては間違っていなかったと思います。
しかし、選挙の天才でもあった田中首相には、「社会保障は票になる」という判断も働いていたという指摘も聞かれます。
田中内閣の下で、昭和48年度(1973年度)の社会保障関係費は前年度比プラス36.7%の高い伸びを示し、中でも社会保険費の伸びが著しく、同プラス48.2%。この結果、一般会計に占める社会保障関係費の割合は前年度の13%から19%に上昇し、構成比において公共事業費を上回りました。
大平首相の時に大蔵事務次官だった長岡実氏は、「素顔の日本財政」(1981年。金融財政事情研究会)という文献の中で、次のように述懐しています。
「これらの制度は、ひとたび整備されると、財政の都合によって伸縮される自由が失われる。不況によって税収が落ち込み、景気回復過程で税収が伸び悩んでも社会保障関係費の予算は大幅に伸び続け、これが大きな赤字要因となったことは否定できない。さらに、不況の時こそ社会的に恵まれない人たちへの配慮を手厚くすべきであるという声も強く、社会保障関係費の予算は増えざるをえなかった」
社会資本と社会保障に対してどのようなスタンスで臨むのか、どのように財政肥大化につながる両者のメカニズムを是正するのか。それなくして、日本の財政を立て直すことはできません。
(了)