赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏のノーベル物理学賞受賞をお祝い申し上げます。おめでとうございました。若い技術者、研究者、学生の皆さんに夢と勇気を与えたと思います。
授賞理由の説明の中に「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」と記されました。LEDとは「Light Emitting Diode」の略。
ダイオードは電流を一定方向にだけ流す性質を有する電子素子。電流を流すと光るタイプが発光ダイオード。エネルギー消費の少ない白色光源である青色LEDの発明、実用化が授賞理由。重ねて敬意と祝意を表します。
白熱灯(フィラメント電球)の発明・実用化(19世紀半ば)はジェセフ・スワン(英)とトーマス・エジソン(米)の偉業。同時期にはハインリッヒ・ガイスラー(独)が蛍光灯を発明。いずれもノーベル賞は授賞していませんが、偉大な先人です。
ところで、ノーベル賞はダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベル(スウェーデン)の遺言と遺産によって1901年に創設された賞。当初は自然科学中心でしたが、今では物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で選考されています。
最も新しい(歴史が浅い)のは経済学賞。1968年にスウェーデン国立銀行が設立300周年事業の一環としてノーベル財団に働きかけ、設立されました。
正式名称はアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞ですが、一般的にはノーベル経済学賞と呼称。アジア人の受賞者は1人だけです(後述)。
ノーベル経済学賞の受賞者の系譜は経済学の歴史と重なります。まずは、ノーベル経済学賞以前の経済学を簡単に振り返ります。
経済学の歴史で最初に登場する学派は重商主義。16世紀から18世紀にかけて、欧州列強諸国が植民地との貿易を通じて貴金属や貨幣を蓄積し、国富を増大させる仕組みを説明。経済理論というよりは経済思想。植民地主義経済学と言ってもよいでしょう。
次は18世紀後半の重農主義。代表的な学者はケネー。重商主義や王権の浪費によって経済や社会が疲弊したことへの反駁から、富の唯一の源泉は農業と考え、農業生産を重視する経済思想です。王権からの干渉を嫌い、レッセフェイル(自由放任)を主張したことは、その後の流れに影響を与えました。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、いよいよ経済思想から経済理論へ。スミス、マルサス、リカード、ミル等々、経済学部出身者が学生時代に聞き覚えのある著名な学者に代表される古典派経済学。需要と供給によって価格が決まる市場機能を重視し、付加価値の源泉を労働に求める労働価値説を基礎とします。
その後、労働の重要性を追求する流れはマルクス経済学につながっていった一方、消費における人間の嗜好性(欲望)の側面から経済活動を説明するメンガー、ジェボンズ等々の新古典派(ネオ・クラシカル)が登場します。
人間の欲望を「効用」という概念で説明し、限界効用によって市場や取引における価格と数量が決定されることを論証(限界革命)。労働価値説に対して効用価値説と呼ばれました。
さて、ここからが近代経済学です。今後の経済政策のあり方にも関係しますので、読者の皆さん、挫折しないで最後まで読んでください(平伏)。
新古典派は、長期における非自発的失業は存在せず、経済主体(消費者や生産者)と市場の自律機能によって、経済は発展・均衡すると考えました。いわゆるミクロ経済学です。
ところが、1929年に大恐慌が発生。ケインズは、経済主体と市場の機能は完全ではなく、需要不足が不況を生み出すことを論証。政府の財政支出によって需要を創造し、不況を克服することを提唱しました。
次に登場したのが新古典派総合。つまり、市場機能を重視する古典派経済学と、政府の裁量による需要創造を重視するケインズ経済学の双方を駆使する理論。ケインズ逝去(1946年)後、1948年に出版されたサミュエルソンの「経済学」における主張が契機です。
1968年に創設されたノーベル経済学賞の初授与は1969年。サミュエルソンは翌1970年にノーベル賞を受賞します。
しかし、その後のスタグフレーション(不況とインフレ)に対して効果を発揮できなかったケインズ的政策に対し、フリードマンが貨幣供給量のコントロールが経済成長やインフレに決定的に重要な影響を与えることを論証。マネタリズムです。
政府の裁量政策の短期的効果は認めつつ、自然失業率仮説と期待概念を導入することで長期的効果を否定。裁量よりもルールに基づいた政策の実行を主張したフリードマンは、1976年にノーベル賞を受賞しました。
マネタリズムと相前後して興隆した合理的期待形成学派。人々が合理的な将来予測を行うことによって、政府の裁量政策は長期的のみならず短期的にも効果がないと主張。その中心であったルーカスは、1995年にノーベル賞を受賞。
こうした考え方は新古典派(ネオ・クラシカル)と共通する要素があり、新しい古典派(ニュー・クラシカル)と呼ばれる学派に発展。紛らわしいですが「新古典派」と「新しい古典派」は異なります。
ニュー・クラシカルは、マクロ経済学モデルを駆使すると同時に、代表的経済主体(消費者や企業)の予測が実現することを想定する「代表的個人モデル」も採用。マクロ経済学と精緻なミクロ経済学を組み合わせました。
最も有名なニュー・クラシカル経済理論であるリアルビジネスサイクル(RBC)モデルを考案したキドランドとプレスコットは2004年にノーベル賞を受賞しました。
一方、代表的個人の予測が実現することの非現実性や、価格や賃金の硬直性(市場調整機能の不完全性)を理由に、裁量的な財政・金融政策の有効性を主張しているのがニュー・ケインジアン。その中心であるマンキューやローマ―は1958年生まれであり、今後のノーベル賞候補です。
以上が主だった近代経済学、現代経済学の系譜ですが、2000年以降にリフレ派と呼ばれる流れも形成され、日本の現在の政策(異次元緩和を中心とするアベノミクス)の理論的根拠となっています。
大恐慌時の金融政策の有効性を再評価したアイケングリーン、ローマー等に加え、「体制転換(レジーム・チェンジ)」とも言える大胆な政策転換によって人々の期待に働きかけることを主張するテミンやウィグモア等の考え方を継承。浜田宏一エール大学名誉教授や岩田規久男日銀副総裁もこの流れに属し、今後の政策の成否が注目されます。
さて、ここまで読んでいただいた皆さん。お疲れ様です。経済学の歴史に詳しくなっていただけたものと思います。しかし、本題はここからです(再び平伏)。
ノーベル経済学賞の受賞者は過去74人。出身国別では米国の50人が圧倒。英国7人、ノルウェー3人、あとは2人が5ヵ国、1人が4ヵ国。アジアからは1人です。
それは、インドのアマルティア・セン。所得再分配の不平等、貧困や飢餓の原因などに関する研究が評価され、1998年に受賞しました。
近代経済学、現代経済学は、生産や消費が増えたか否か、インフレになったか否か、儲かったか否かを問うことはできても、それで幸せになれるか否か、平和が実現するか否かは論証できません。
「そんなことはない。金銭的に豊かになれば幸せということだ。生産が拡大すれば平和は実現する」という意見が聞こえてきそうですが、話はそんな簡単ではありません。だからアマルティア・センがノーベル賞を受賞したのです。
社会は市場ではない。個人も市場ではない。しかし、社会も個人も近代経済学が生み出した「効用」概念で成否や幸不幸を判断しようとする。
個人や企業は全て合理的で効率的で金銭的な成果を求めて行動する。しかし、それで人々は幸せになり、社会は平和になるのだろうか。世の中、それほど合理的なのか。貧困や格差は放置してよいのか。
そんな問いかけがアマルティア・センの経済学です。彼の名著「合理的な愚か者(Choice, Welfare, and Measurement)」の出版は1982年。日本語版はバブル絶頂期の1989年に出版され、僕も読みました。
最初の方の記述を繰り返します。労働の重要性よりも、消費における人間の嗜好性(欲望)の重要性に着眼してスタートしたのが近代経済学。換言すれば、欲望理論。
先月18日、日本の近代経済学の先駆者、宇沢弘文先生がご逝去。86歳でした。米国でも教鞭をとり、スティグリッツ(2001年ノーベル賞受賞者)等、多くの門下生を輩出。
その宇沢先生も、合理性と効率性を追求する経済学から、やがてアマルティア・センに共通する問題意識の方向へ傾倒していかれました。
ノーベル賞は「人類に多大な貢献」をしたことが授賞基準。経済学がその対象足り得るか否かについては論争があります。
経済学は価値観を伴います。「人類に多大な貢献」をしたか否かの評価は簡単ではありません。自然科学は実用に供しますが、経済学はその点が微妙。
初期の頃は受賞者自身がこの点を指摘。1974年の受賞者ハイエクは授賞式で「ノーベル賞は経済学には不適当。自然科学なら評価が客観的だが、経済学は政治家やジャーナリスト、官僚などに利用され、不当に持て囃されるリスクがある」と発言したそうです。
初代選考委員長にシカゴ学派(マネタリズムや合理的期待形成学派が中心)と関係が深いリンドベック(スウェーデン)が就任し、以後30年間続投。受賞者はシカゴ学派の系譜に属する人に偏っており、シカゴ学派的な新自由主義の理論と政策の権威づけと正当性を主張する根拠に利用されているとの批判もあります。
シカゴ学派は金融工学(高度な証券・デリバティブ取引)理論の基礎でもあることなどから、ノーベル家、ノーベル財団、スウェーデン王立科学アカデミー関係者の間では、「授賞対象の経済理論は抽象的で現実世界と乖離している。ノーベルが意図した人間生活の向上とは異質」という指摘や、経済学賞創設の経緯から「厳密にはノーベル賞ではない。名称を変えるべき」との意見もあるそうです。
さて、経済学の未来や如何に。本格的な成熟社会・人口減少社会に突入した日本にとって、資源や成長の限界の直面しつつある世界にとって、現在の経済学の系譜は適切な処方箋を示しうるのか。日本の課題、世界の課題、そして僕自身の課題でもあります。
(了)