政治経済レポート:OKマガジン(Vol.384)2017.5.26

トランプとロシアの不透明な関係「ロシアゲート」事件に関する特別検察官にモラー元FBI(米連邦捜査局)長官が就任。外遊中のトランプが帰国後に捜査が本格化します。安倍首相と加計学園の不透明な関係「加計ゲート」事件にも厳格な捜査が必要です。特別検察官制度のない日本。こういう時は東京地検の出番です。内外とも目が離せません。


1.パレスチナ分割決議

中東和平は国際問題の中で最も複雑・難解、かつ解決が困難な課題。その中東を大統領就任後の最初の外国訪問先として選び、イスラエル、パレスチナ双方のトップと会談したトランプの真意はよくわかりません。

世界平和に貢献する姿勢を示したと評したいところですが、トランプのここまでの言動から推察すると、とてもそのようには思えません。国民と世界の目を、米国内政の行き詰まりから国際外交に向けさせる策謀でないことを祈ります。

中東紛争の原因をつくったのは第1次世界大戦における英国主導の三重外交。すなわち、英国がアラブ人に独立を約束した「フサイン・マクマホン協定(1915年)」、英仏露がアラブ地域の三分割統治を密約した「サイクス・ピコ協定(1916年)」、英国がユダヤ人に独立を約束した「バルフォア宣言(1917年)」。

詳細はメルマガ348号(2015年11月20日号)で解説しています。ご興味があればHPのバックナンバーでご覧ください。今回は第1次世界大戦後のパレスチナを巡る展開を扱います。中東問題を考える際の必要最低限の情報です。

パレスチナとはシリア南部、地中海東岸一帯の地域を指します。この地は、ユダヤ教の聖典において「イスラエルの民に与えられた約束の地」と説かれていることから、ヘブライ語で「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)」と呼ばれています。

イスラエルはアブラハムの孫ヤコブの別名。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信徒、わゆる「啓典の民」の始祖。最初の預言者で「信仰の父」とも呼ばれます。その孫ヤコブは古代イスラエル王の祖先。伝統的にユダヤ人の祖先と考えられています。

メルマガ381号(2017年4月11日号)で解説しましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信仰。意外に知られていませんが、ルーツは同じです。

パレスチナは長い間、イスラム国家の支配下に置かれていましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信徒(人種的には全てアラブ人)が共存していた地域。第1次世界大戦の頃はオスマントルコ帝国の域内でした。

19世紀末、つまりオスマントルコ帝国末期、欧米で生活していたユダヤ人(ユダヤ教徒)のパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ユダヤ人のパレスチナ入植が始まりました。

その中で行われたのが、第1次世界大戦下での英国による三重外交。大戦後、パレスチナは英国の委任統治領となりました。

ユダヤ人の入植が増加するに伴い、アラブ人(イスラム教徒)との摩擦が強まり、アラブ人は英国に対してユダヤ人の入植制限を要求。英国はユダヤ人とアラブ人の板挟みとなり、両大戦の戦間期、パレスチナではユダヤ人、アラブ人、英国軍の衝突が頻発。

第2次世界終了後、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化。英国は事態収拾を困難と判断し、委任統治を終了させる意向を表明。

英国は発足直後の国連にパレスチナ問題の仲裁を提訴。1947年11月、国連は同地域にユダヤ人とアラブ人の国家を建設する決議を採択(パレスチナ分割決議)。

この決議では、ユダヤ人国家は面積でパレスチナ全体の56%を占め、テルアビブ等の都市と肥沃な地域を包含。人口構成はユダヤ人55%、アラブ人45%。

一方、アラブ人国家は同43%。同地域にはユダヤ人はほとんどおらず、人口構成はユダヤ人1%、アラブ人99%。

ユダヤ教、キリスト教、ユダヤ教共通の聖地であるエルサレムやベツレヘムを含むパレスチナ中央部のわずかな地域(全体の1%)は、中立の国連管理地域とする予定でした。

ユダヤ人はこの決議を歓迎したものの、アラブ人は反発。結果的に、この決議はユダヤ人、アラブ人の対立を決定的にしてしまったと言えます。

ユダヤ人とアラブ人の武力衝突が頻発するようになり、パレスチナは事実上の内戦状態に突入。

1948年5月14日、英国によるパレスチナ委任統治終了の日にユダヤ人はイスラエル建国(独立)を宣言。翌日には、反発する周辺アラブ諸国がパレスチナに侵攻し、第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)が勃発しました。

2.中東戦争

第1次中東戦争におけるアラブ側の兵力は約15万人、イスラエル側は約3万人。兵力ではアラブ側優位でした。

もっとも、兵士の士気はイスラエル側の方が高く、また参戦したアラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン)は相互不信から連携がうまく取れなかったと言われています。

戦況が次第にイスラエル優位となる中、1949年6月、双方とも国連の停戦勧告を受諾。イスラエルはパレスチナ分割決議以上の領土を確保したものの、聖地エルサレムは新市街地(西部)しか確保できす、首都はテルアビブに置くこととなりました。

アラブ側はエルサレム旧市街地(東部)を含むヨルダン川西岸地区がヨルダン領、地中海沿岸のガザ地区がエジプト領になり、アラブ人居住地は分断されました。

この結末に双方とも不満。イスラエルは独立したものの、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」を含むエルサレム旧市街地には出入できなくなった一方、アラブ側はイスラエルの建国を許し、イスラエルよりも少ない地域しか占有できませんでした。

イスラム系アラブ人(パレスチナ人)の多くが故郷を追われ、パレスチナ難民となって周辺に流出。この結末が、今日に続く対立の原型となりました。

1956年、エジプトがアスワンハイダム建設を巡って英米両国と対立。エジプトは英米両国への対抗措置としてスエズ運河国有化を宣言。

スエズ運河を利用していた英仏(米ではなく仏)両国が国有化に反発。エジプトと対立していたイスラエルを煽って第2次中東戦争(スエズ動乱)を扇動。同年10月、イスラエルはシナイ半島(イスラエルとエジプトの中間地帯)に侵攻しました。

英仏も軍事介入してスエズ運河地帯に進軍。すると、エジプトを支援していたソ連のみならず、米国も英仏に反発。11月6日、各国は国連の停戦決議を受諾。

結局、英仏はエジプトによるスエズ運河国有化を追認。軍事的にはエジプトに勝利したイスラエルは米ソの圧力によって外交的には敗北。エジプトは軍事的には敗北したものの、スエズ運河国有化を果たし、アラブ諸国の盟主としての地位を確立。英国は中東での影響力を一気に失いました。

1967年、ゴラン高原でのユダヤ人入植地建設を巡ってイスラエルとアラブ諸国が対立。ゴラン高原は、イスラエル、レバノン、ヨルダン、シリアの4ヶ国が接する国境地帯です。

同年6月、イスラエルはエジプト、レバノン、ヨルダン、シリアの空軍基地を先制攻撃。第3次中東戦争が勃発。アラブ諸国は緒戦で400機以上の航空機を破壊され、制空権を喪失。その結果、地上戦でも敗北。

イスラエルは、ヨルダン領エルサレム旧市街(東部)、ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を一気に占領。

開戦6日後に早くも停戦が成立したため、「6日戦争」と呼ばれる第3次中東戦争。国連はイスラエルの領土拡大を否認。イスラエルは建国当初の領土に押し戻されたものの、事実上、パレスチナ全域を実効支配。第1次中東戦争時以上のパレスチナ難民が発生しました。

なお、イスラエルはスエズ運河東岸も占領したため、スエズ運河は前線地帯となり、第4次中東戦争が終わるまでの8年間、使用できなくなりました。

その後、イスラエルとエジプトの間で散発的な軍事衝突を起こしつつ、数年が経過。1973年10月6日、エジプトは失地回復のためシリアとともにイスラエルを先制攻撃。第4次中東戦争が勃発しました。

ユダヤ教徒の休日(ヨム・キプールと言われる贖罪日)を狙った先制攻撃であったこと、エジプトは第3次中東戦争での制空権喪失の経験を踏まえ、地対空ミサイルで徹底的にイスラエル空軍機攻撃を行ったこと等が奏功し、緒戦はエジプト優勢。

しかし、自力に勝るイスラエルはまもなく反撃。一度は占領されたゴラン高原やスエズ運河周辺域を奪還。やがて、国際社会の調停により10月23日に停戦成立。第4次中東戦争は、「10月戦争」「ヨム・キプール戦争」とも言われます。

戦闘期間中、アラブ産油国は原油価格を引き上げたほか、イスラエルを支援する米蘭への石油輸出を禁止。日本を含む親米西側諸国にも輸出制限を行い、第1次石油ショックが発生。これを機に、アラブ産油国は欧米オイルメジャーから価格決定権を奪取。以後の産油国の発展につながっていきます。

3.パレスチナ暫定自治協定

第4次中東戦争後、イスラエルとアラブ諸国の関係に構造的変化が生じます。エジプトのサダト大統領が反イスラエル路線を転換。1978年3月、キャンプ・デービッド合意(エジプト・イスラエル和平合意)に調印。

アラブ諸国の結束を崩した一方、サダトはノーベル平和賞を受賞。しかし、3年後、イスラム原理主義者により暗殺されます。

1979年2月、イランではイスラム革命が勃発。親米パーレビ国王は追放され、国外亡命していたホメイニ師が帰国。反米イスラム国家が誕生しました。

イスラム革命の波及を恐れた周辺アラブ諸国や米ソ両国は、イランの隣国イラクを支援し、イラン・イラク戦争を扇動。詳しくはメルマガ348号(2015年11月20日号)で解説しています。

1982年、イスラエルがレバノンに侵攻(アラブ側は第5次中東戦争と認識)。ところが、それまでの自衛戦争とは異質であったため、イスラエル国内が厭戦ムードとなって撤退。

1987年、ガザ地区でイスラエル軍に対する大規模な抵抗運動(第1次インティファーダ)が発生。インティファーダはアラビア語で「反乱」「蜂起」を意味します。

1990年のイラクのクウェート侵攻を機に、翌1991年、湾岸戦争が勃発。アラブ諸国同士が対立する展開となり、中東情勢は複雑化していきました。

さらに、産油国と非産油国の利害対立、冷戦終了、ソ連崩壊等の影響から、アラブ諸国の対イスラエルの姿勢が多様化。結局、イスラエルの敵対勢力はアラブ諸国から非政府組織であるパレスチナ解放機構(PLO<1964年設立>)等に移行。

1991年、中東和平会議開催。1992年、イスラエルで和平派のラビンが首相に就任。1993年、米国で中東和平重視のクリントンが大統領に就任。ラビン、クリントンの活躍により、同年9月、イスラエルとPLOが相互承認し、パレスチナ暫定自治協定に調印。

その結果、ヨルダン川西岸地区とガザ地区はパレスチナ自治政府が統治することとなり、アラファトが初代大統領に就任。1994年、ラビンとアラファトはノーベル平和賞を受賞。しかし、それぞれイスラエル極右勢力、パレスチナ過激派から憎まれ、1995年、ラビンは極右ユダヤ青年に暗殺されます(アラファトは2004年に病没)。

その後も不安定な情勢が続いた後、2000年、イスラエルの右派政党党首シャロンがエルサレム「神殿の丘」訪問を契機にパレスチナ全域で第2次インティファーダが発生。中東和平は崩壊しました。

「神殿の丘」はイスラム教管理下にあり、ユダヤ教、キリスト教は宗教的行事を行わないことになっていたにもかかわらず、シャロンがそれを破ったと言われています。

翌2001年、イスラエル首相に就任したシャロンは、PLOやハマス(1987年設立)をテロ勢力と見なして幹部暗殺を開始。ハマスは1987年に設立された政党。アラビア語の「イスラム抵抗運動」の頭文字から「ハマス」と命名したそうです。

2006年、イスラエルが再びレバノン侵攻。2008年、ガザ地区を実効支配するハマスとイスラエルの間で紛争勃発(ガザ紛争)。2014年、イスラエルはガザに侵攻。

2011年には「アラブの春」が発生。イスラエル、パレスチナを囲むアラブ諸国では民主化勢力による政変が勃発。

北に位置するシリアでは、独裁政権(アサド)側が民主化勢力を駆逐。今日に至るシリア内戦に発展。詳細はメルマガ343号(2015年9月11日号)で解説していますが、今や米露中英仏、IS(イスラム国)、反政府組織等、敵味方入り乱れて泥沼状態。

この間、2004年に死去したアラファトの後を受けてパレスチナ自治政府ではアッバースが第2代大統領に就任。イスラエルでは2009年、ネタニヤフが2度目の首相就任。

今回トランプは、内政が迷走する中、大統領就任後初の外国訪問先として中東を選び、そのネタニヤフとアッバースと会談。

ネタニヤフに「米国とイスラエルは共通の価値を有する」と語り、米国大統領として初めてエルサレム「嘆きの壁」を訪問。シャロンの「神殿の丘」訪問を彷彿とさせます。

アッバースには「和平仲介のために何でもやる」と述べ、中東混迷の鍵を握るイランについて「イランを孤立させ、テロ資金を根絶させ、核兵器を保有させない」と放言。

しかし、中東和平に向けた具体的提案等はなし。むしろトランプは、シリア内戦や中東問題に深く関与しているロシアとの不透明な関係を米国内で問われている最中です。

トランプは9日、「ロシアゲート」事件を捜査していたコミーFBI(米連邦捜査局)長官を電撃解任。事態を重く見た世論や議会の影響から、米司法省は17日、「ロシアゲート」事件に関してモラー元米連邦捜査局(FRB)長官を特別検察官に任命。

22日、米有力紙(ワシントンポスト)は、コーツ国家情報局長とロジャーズNSA(国家安全保障局)局長の2人も、3月にトランプから圧力をかけられていたと報道。その最中のトランプの中東訪問でした。

東アジアも中東もトランプにとっては内政崩壊を繕う外交カードであることは間違いありません。対北朝鮮、中東和平に関するトランプの言動は慎重に分析する必要があります。

米国で「ツイッター狂い」と言われているトランプ。大統領当選直後の昨年11月21日、素晴らしい名言をツイート。

曰く「権力は最大限の思いやりをもって使われたとき、最もその良さを発揮する(When power was used with maximum consideration, its good is shown most)」。

昨日、トランプのために英国思想家ジョン・アクトンの名言をツイートしておきました。「権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対に腐敗する(Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely)」。

おまけとして、日本の暴君のためにアクトンの名言に一節加えておきました。「軽薄な権力は簡単に腐敗する(Frivolous power corrupts easily)」。

(了)

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