政治経済レポート:OKマガジン(Vol.437)2020.3.17

新型コロナウィルス感染症に伴う混乱が続いています。感染拡大抑止、治療薬開発が急務です。さらに、経済への影響が深刻さを増しています。ウィルスに感染しなくても、経済的影響で困窮する人が続出し、リーマンショックや東日本大震災の時よりも深刻な事態です。政府や自治体、財政当局及び中央銀行には、前例や平時の常識に囚われない対応を求め、具体的な提案もしていきます。


1.フーバー毛布

今回の新型コロナウィルス感染症に伴う経済的影響は、リーマンショックや東日本大震災を上回ります。現時点で具体化している経済的影響は4つのカテゴリーに分かれます。

第1はイベント自粛等に伴う損害。主催者側、会場側のキャンセル料や違約金の扱い、仕出し等の関係業者のキャンセル料、収入減等、損害の形態は様々です。

第2は個人の収入減。第1とも関係しますが、フリーランス(司会、照明、IT等の個人事業者)の収入減、企業の生産・事業縮小に伴う派遣労働者の解雇等、やはり形態は様々です。

第3は、サプライチェーン断絶に伴う操業停止、業績悪化。中国の状況が最も深刻に影響していましたが、今や世界規模のサプライチェーン断絶になっています。

第4は景気そのものの悪化。上記の3つに加え、感染防止のために人々が活動や外出を自粛しており、景気は急速に悪化。今後その影響が企業や個人に広がります。

新型コロナウィルス感染症の拡大がピークアウトし、生産・消費活動が正常化しなければ本質的な回復はないものの、それでも現状に照らして時宜を得た対策が打ち出されないと、事態の深刻さを助長します。

現状考えられる対策は次の4つです。(A)資金繰り保障。今回の混乱による資金繰り逼迫には、即断即決、与信枠関係なし、無利子・無担保で対応することが必須です。

(B)経済補償。上記の影響カテゴリーの第1や第2に対応します。(C)給付。同様に第2や第4に対応します。(D)家計減税。同様に、第1、第2、第4に対応します。

規模感としては、(A)は無制限、(B)(C)(D)は各10兆円で総額30兆円。このパッケージの政策を直ちに打ち出さないと、影響が長引いた場合には手遅れになります。

(A)(B)(C)(D)は第3のサプライチェーン問題には全く対応していません。これを解決するには、世界経済が正常化するか、新たなサプライチェーン構築が必要です。

いずれにしても現状は五里霧中。日銀の政策も理解できますが、大火事に直面して消火ポンプの取扱い説明書を読まされている気分です。金融政策では今の事態を解決できません。

全く予断を抱けませんが、歴史に残る経済ショックになっていることは事実。1929年の「暗黒の木曜日」を契機にした大恐慌と並び称されるでしょう。とりあえずコロナ恐慌と呼んでおきます。

大恐慌は1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式取引所での株価大暴落から始まりました。その後1936年にかけて世界的不況となり、第2次大戦の原因にもなりました。

企業倒産、銀行破綻が続き、1932年時点で世界の工業生産は半減。米国では約1300万人(4人に1人)、世界全体では5000万人超が失業していました。

1933年、米国ルーズベルト大統領がニューディール(大規模公共事業に伴う財政出動)政策を発表。ここに至るまでの米国内の状況は3期に分けられます。

第1期は1929年10月から30年9月。1929年の失業者数は155万人(失業率3.2%)、30年434万人(8.7%)。事態の深刻さはまだ認識されておらず、30年成立のスムート・ホーリー法による高関税、輸入抑制で国内市場の回復が期待されていました。

第2期は1930年10月から31年12月。30年末から失業者が急増。31年には802万人(15.9%)に達し、政府や自治体が失業者向けの給食や宿泊施設提供を開始。

第3期は1932年1月から33年3月。失業者は33年に1283万人(24.9%)に達し、当初は「仕事のない人」(The idle)と呼んでいた失職者を「失業者」(The unemployed)と呼ぶようになりました。

「The idle(怠け者)」という英語からわかるように、自由放任主義の信奉の下、仕事の確保は労働者本人と企業の問題、働かない者は怠け者、という米国社会の雰囲気があったそうです。フーバー大統領も自由放任主義者でした。

失業者が集まる公園や空き地のバラック群は「フーバー村」、寒さ凌ぎに被る新聞紙は「フーバー毛布」、引っぱり出されたズボンのポケットは「フーバーの旗」と呼ばれ、「暗黒の木曜日」以降の大統領の無策を揶揄しました。

この間、1932年3月のデトロイトでは、3000人の労働者や市民の抗議デモに対して警察が発砲、死者4人、重傷50人の惨事が発生。同年7月、ワシントンで生活苦を訴える退役軍人のキャンプをマッカーサー将軍指揮下の部隊が焼き払う騒動も起きました。

2.自由放任主義

大恐慌の直接的契機は「暗黒の木曜日」ですが、その背景には1920年代に蓄積された経済構造の歪みが影響しています。

第1に過剰生産。第1次大戦後の復興景気の中で、自動車、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫、化粧品等の新たな消費財や住宅が大量生産され、広告宣伝によるセールス、月賦販売(信用販売)等の新しい営業手法と相俟って、過剰消費を誘発する過剰生産状態に陥っていました。

第2に投機。企業の設備投資や生産に必要な資金は、急速に発展していた株式市場で調達されていました。株価上昇は投機を生み、資金調達を容易にし、過剰設備投資と過剰生産を誘発。投機が過剰生産を助長していました。

投機の背景には、第1次大戦後に米国に金(Gold)と英仏両国からの戦債返済資金が流入していたことが影響しています。過剰資金は銀行から証券会社、株式仲買人を経由して個人投資家や普通の国民にも貸し付けられ、株式投資ブームが起きていました。

企業同士の株の持ち合い、投資信託が急増。一躍花形職業になっていた証券営業マンが株を売りまくり、多くの国民が株式市場に参入していました。

第3に需要不足。「暗黒の木曜日」直前の数年間は、農業不況、農家の購買力低下が深刻さを増していました。第1次大戦時に食料需要が高まり、価格も上昇。機械化と相俟って米国での穀物増産が進んだ一方、戦後は独仏等の欧州諸国が高関税で自国農業を保護し、食料自給を進めていました。

そのため、1924年頃から農産物価格が下落。米国の農民は第1次大戦中に借金によって耕地拡大と機械化を進めていましたので、農産物価格下落は農家を直撃。さらに1929年は豊作貧乏となり、農民の購買力が著しく低下している中で「暗黒の木曜日」を迎えました。

以上のように、1920年代の米国経済の繁栄を支えていたのは、信用販売と過剰資金による投機。それが生み出す過剰消費と過剰生産。需給実態と関係ない経済になっていました。

1920年代後半には需給ギャップが徐々に経済に影響を与え、購買力は鈍化し、製品・商品は飽和状態。不動産価格は既に1925年にピークアウト。投資家は1929年夏にはこうした矛盾を意識するようになり、株価もピークアウト。そうした中で迎えたのが10月24日、「暗黒の木曜日」でした。

さらに「暗黒の木曜日」後の米国政府の対応が混乱を深刻化させました。第1に、上述のとおりフーバー大統領(及び政権幹部)は自由放任主義者。不況は周期的なもので景気はやがて回復すると考え、人為的対策には後ろ向き。市場原理に委ねるべきとの基本方針でした。

第2に1930年6月に成立した上述のスムート・ホーリー法により関税引き上げを実施し、保護貿易に舵を切りました。他国も追随し、世界の保護主義化が始まりました。

英国は英連邦内に特恵関税を設け、スターリング(ポンド)経済圏を構築。呼応してフランスもフラン経済圏、米国もドル経済圏を構築。主要国がブロック経済化に転じたため、世界全体の貿易が衰退し、恐慌を長期化させました。

各国は自国経済立て直しに奔走。1931年、英国マクドナルド挙国一致内閣が金本位制停止に踏み切ると、33年には米国も金本位制停止。世界の金本位制は崩壊しました。

第3にドイツへの対応。第1次大戦の敗戦国ドイツも世界恐慌の影響を受け、1931年6月、独ブリューニング首相が賠償金支払いは困難と表明。米フーバー大統領は賠償金の1年間支払い猶予を表明(フーバー・モラトリアム)。

フーバー大統領は1年(「暗黒の木曜日」からは約3年)で恐慌は終息すると考えていたようですが、事態はさらに深刻化。

1932年、日本の働きかけでドイツ債務問題を再度協議するローザンヌ(スイス)会議を開催。ドイツ債務問題は事実上棚上げされると同時に、英仏両国も自国の対米債務帳消しを企図。しかし米国は会議に出席せず、英仏の目的は果たせませんでした。

1933年のドイツの失業者は600万人(3人に1人)に増加、銀行破綻も発生。ドイツ経済の破綻はドイツに戦争債権を有する英仏経済も悪化させ、英仏から米国への債務返済にも影響が出て、米国経済も従前のようには回らなくなりました。

そのような中で、ドイツでは1933年1月、ヒトラーが首相となり、対米英仏の戦争債務(賠償金)は曖昧なまま第2次大戦に向かっていきます。

1933年6月、国際連盟主催のロンドン世界経済会議に67カ国が集まり、国際協調を協議したものの、米国ルーズベルト大統領は世界経済全体に責任を持つことを放棄。賠償問題、通貨問題で合意はまとまらず、結果的に第2次大戦につながっていきます。

3.デッド・キャット・バウンス

世界恐慌の影響を最も強く受けたのがドイツ。植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも破綻。日本は既に大陸進出を果たしていましたが、国内には地主制度等の古い社会構造が残り、農村不況が慢性化。資源と市場を海外に求める経済界と軍の圧力が強まりました。

「持てる国」英米仏と「持たざる国」日独伊の構造が明確化。後者は「生存圏」の拡張を掲げ、ドイツは東ヨーロッパ、イタリアは北アフリカとバルカン、日本は満州から中国本土へ進出。世界は第2次大戦への途を歩み始めました。

この間、米国ではルーズベルト大統領のニューディール政策が一定の成果をあげ、1937年には失業者が770万(14.3%)まで減少。しかし、それ以上には減りませんでした。

米国の失業問題は、第2次大戦開戦(1939年9月)後の1941年3月、武器貸与法が成立して連合国に武器を売却・貸与することが可能となり、「民主主義国の兵器廠」として軍需産業が大活況になったことによって改善。失業率は1%台に低下しました。

話題を現在に戻します。今回のコロナ恐慌による世界経済の動揺も、その背景に他の要因も影響していることを注意深く見極める必要があります。

大恐慌の背景にあった、過剰生産、投機、需要不足の3点は、現在の世界経済にも当てはまる面があります。

リーマンショック以降の主要国の超金融緩和の下で、人々の経済力の実態とはかけ離れた消費、生産、投機が行われる一方、実質的な消費購買力、需要は低下していた気がします。

大恐慌の時にはなく、今回のコロナ恐慌にのしかかる問題が2点あります。ひとつはグローバルなサプライチェーン問題。現在の事態が長期化すると、グロ-バルなサプライチェーンの破綻がコロナ恐慌を深刻化させます。

もうひとつは、根本的な問題です。そもそも新型コロナウィルス感染症がピークアウトし、その治療薬、治療法が開発されなければ、現在の事態が続くということです。

この2つの問題に警戒感を持ちながら、金融証券市場の動向を見極めなくてはなりません。

大恐慌では、株価暴落は1929年10月24日の「暗黒の木曜日」だけではありません。翌25日(金)、28日(月)、29日(火)の株価も暴落。むしろ、壊滅的下落は28日と29日。そして、株価暴落は1ヶ月間続きました。

株価(ダウ工業株平均)は1929年まで6年間上がり続け、当初の5倍となり、1929年9月3日に最高値381.17をつけた後に下がり始め、1ヶ月間で17%下落。その後約10日間で下げ幅の半分を回復したものの、その後また下落。下げ基調は加速していきました。

「暗黒の木曜日」の売買高は当時の記録破りとなる1290万株。市場が休みの週末、24日、25日のウォール街のパニックは全米の新聞で報道され、週明け28日には13%下落。

そして29日の火曜日、1600万株が売買され、壊滅的な株価崩壊。その日だけで140億ドルの市場価値が失われ、1週間の損失は300億ドル。米国連邦政府予算の10年分以上に相当し、第1次大戦で米国が費やした戦費をはるかに上回りました。

一時的な底値は11月13日の198.60。市場はこの時点から数ヶ月間回復し、翌1930年4月17日には294.07という2番目の高値をつけました。いわゆる「デッド・キャット・バウンス」です。

そこから再度下落、1年3ヶ月後の1932年7月8日に41.22をつけ、最高値比89%下落という衝撃的な水準に到達。米国及び世界の経済は崩壊しました。

「デッド・キャット・バウンス(Dead Cat Bounce)」は株式投資用語です。株価が大幅下落後の一時的な回復を意味します。その意味は「高いところから落とせば、死んだ猫でも跳ね返る」という意味です。

上述の大恐慌の時にはなかった2点、第1にグルーバル・サプライチェーンの問題、第2に新型コロナウィルス感染症の問題が解決されない限り、当面の株価動向は「デッド・キャット・バウンス」を意識しながら、その動向を分析しなくてはなりません。

最後に、大恐慌には、第1次大戦後の世界経済が米国に依存し過ぎたことが影響しています。今回のコロナ恐慌には、現在の世界経済、とりわけ日本経済の中国依存度が過ぎていることも影響していると見るべきでしょう。

経済のみならず、食料、医療、エネルギー、さらには文化に至るまで、総合的な視点から国のあり方、安全保障の構造を考え直す局面です。安全保障は防衛力だけではありません。

(了)

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