菅政権が発足。デジタル庁が話題になっていますが、技術革新における日本の遅れは危機的状況。デジタル庁を作っている間にも世界との距離は広がります。そうした観点から目が離せないニュースがソフトバンクグループ(SBG)によるArm(アーム)のNVIDIA(エヌビディア)への売却合意。以下、耳なれない企業名や技術用語が登場しますが、こういうニュースの深層を理解、共有することも、日本の重要な課題です。
4年前のメルマガ364号で、ソフトバンクグループ(SBG)による英半導体設計企業アーム(Arm)買収の背景、そしてArmがどのような意味で超重要な企業であるかをお伝えしました。その年、英国ケンブリッジにあるArmにも行きました。
9月13日、SBGがそのArmを米企業エヌビディア(NVIDIA)に売却することを決定。NVIDIAが自社Webサイトで公開した声明をもとに、事実関係を整理します。
売却額は最大400億ドル(約4兆2千億円)。NVIDIAは買収資金の一部を自社株で賄います。売却契約時にArmに20億ドル、SBG及びSVF(ソフトバンク・ビジョン・ファンド)に現金100億ドルとNVIDIA株215億ドル分(4430万株)を支払います(株評価額は直前30日間のNVIDIA株価終値の平均値から算出)。
買収後、業績に応じて対価の一部を後払いする「アーンアウト」として最大50億ドルを現金か株でSBGとSVFに支払うほか、Arm社員に15億ドル相当の株式報酬を付与。なお、NVIDIAは現金部分は手元資金で賄うそうです。
その結果、SVFの既往保有分を含め、SBGはNVIDIA株を6.7%から8.1%保有するものの、NVIDIAはSBGの子会社、関連会社にはならない方針です。
4年前のメルマガ送信後にArmに関して多数の質問をいただきました。今回も、NVIDIAのArm買収が半導体産業や国際関係に与える影響の大きさを踏まえつつ、整理します。
NVIDIAは米カリフォルニア州サンタクララにある半導体企業。CG(コンピュータ・グラフィックス)処理に用いるGPU(グラフィックス・プロセッシング・ユニット)の設計が主業。
Armと同様のファブレス(自社工場を有しないOEM<委託製造>専業)企業。主なファウンダリー(OEMメーカー)はTSMC(台湾積体電路製造)です。
製品名に少々深入りしますが、PC(ゲーム)用のGeForce、プロ用のQuadroやNVS、スパコン用のTesla、スマホ・タブレット用のTegra等が主力です。
NVIDIAはジェン・スン・ファン(黄仁勳、現在も社長兼CEO)が1993年に設立。ファンは台湾系米国人。オレゴン州立大、スタンフォード大で電気工学を専攻。マイクロプロセッサ設計者等として働いた後、30歳の誕生日にNVIDIAを起業しました。
コンピュータ演算処理に用いる半導体はCPU(セントラル・プロセッシング・ユニット<中央処理装置>)と上述のGPUの2つが柱であり、ArmはCPU設計の世界の中心企業。一方、NVIDIAはGPUの主力企業。
ArmとNVIDIAのそれぞれの分野における立場は根本的に違います。Armは設計IPを半導体メーカーに提供しています。IPはIntellectual Propertyの略で「知的財産」「設計資産」という意味です。
つまり、半導体メーカーはArmの設計IPを購入して製品を作っています。詳しくはメルマガ364号をご覧ください。
Armの設計IPが優れているために、Intel、Apple、Google、HP等の米国企業のみならず、Huawei等の中国企業を含む、世界の主要企業がArmの顧客(以下、顧客群)です。
Arm設計IPを使用したCPUは既に世界で1800億個以上提供され、顧客群は1000社以上。2019年出荷の半導体のうち228億個がArm設計IPを使い、シェアは約34%。電力効率に優れていることから、スマホ向けのシェアは9割以上です。
最近ではスマホからインフラへも利用が広がり、演算速度世界一を奪還した日本のスパコン「富岳」やアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)にもArm設計IPが採用されています。
喩えて言えば、ArmはCPU分野における公共財のような存在。Armを買収するNVIDIAはGPU分野でそこまでの域には達していません。その違いに、今回の買収に纏(まつ)わる問題点が存在しています。
米中欧、台湾、韓国等を含む世界の主要半導体企業がArmの顧客群に含まれています。さらに喩えて言えば、Armは高速道路のような存在で、その上を走っている車の様々なメーカーが顧客群になります。
Armを買収するNVIDIAは、GPU分野ではその顧客群と競合関係にあり、最も性能の良いGPU設計企業という存在です。
NVIDIAがArmを買収することは、高速道路も自社の支配下に置くことを意味し、その上を走る競合他社が懸念を抱くのは当然の帰結。
競合他社は、公共財であるArm設計IPがNVIDIAに優位に構築されたり、NVIDIAだけに情報開示されることを懸念しています。
そうした懸念があることを理解している故に、NVIDIAは声明の中で「Armの中立性を維持します」と言及。
Arm顧客群に含まれる半導体企業のArm離れが起きるとの指摘も出ています。早くも、カリフォルニア大学バークレー校(UCLA)が無償公開するオープンソース半導体設計IP「RISC-V(リスクファイブ)」が代替技術として注目を集めています。
Arm共同創業者ハーマン・ハウザーはロイターのインタビューで警告。曰く「ケンブリッジ、英国、欧州にとって最悪の事態。グローバルな重要性を持つ欧州最後のテクノロジー企業が米国に売却される。半導体産業のスイスであるArmのビジネスモデルが崩壊する」。
同氏はインタビューの中で英政府に対し、買収承認に3条件を付けるよう提案。第1に、英国内の雇用の保証。第2に、Armのオープンなビジネスモデルの維持。第3に、Armと顧客との関係について米国の安全保障上の問題と切り離すこと。
第3の条件から推察できるように、NVIDIAによるArm買収は単なるビジネス案件ではなく、国際関係、とりわけ米中対立にも深く関係しています。
Armの公共財的性質を鑑みると、顧客企業の属する主要国の独占禁止政策上の承認が必要になるでしょう。具体的には、米国、英国、EU(欧州連合)、中国です。
NVIDIAの声明、及びNVIDIAのファンCEO、ArmのシガースCEOの記者会見の中で、売却手続は始まったばかりで、完了までに約18ヶ月かかるとしています。
2018年、米半導体大手クアルコム(Qualcomm)がオランダNXP半導体を買収しようとした際、中国の承認が得られずに断念した事例もあります。
今回も中国の承認が最大の難関。米国と英国が同意しても、中国が難色を示し、安全保障上の問題に発展する可能性もあります。
既に、中国共産党機関紙「人民日報」系「環球時報」の論説記事は「憂慮すべき事態、世界の規制当局は慎重に承認の是非を検討する必要がある」と論評しています。
さらに「米中対立や米国による中国企業への圧力を踏まえると、Armが米国の手中に収まれば中国は極めて不利な立場に陥る」「米国の禁輸リスト(エンティティー・リスト)に加えられた中国企業はArm設計IPを用いた半導体を使用できなくなる」「Arm設計IPを使っている欧州企業も中国への輸出ができなくなる」と記しています。
こうした懸念は想定の範囲内のはずです。にもかかわらず、NVIDIAとSBGがArm買収・売却の合意に達した背景には、コロナ禍も影響しています。
NVIDIAによるArm買収は7月頃から市場で情報が流れていました。2016年のSBGによるArm買収額は320億ドル。SBGはそれを上回る対価を要求すると予想されたことから、NVIDIAは必要資金を調達できないとの見方もありました。
しかし、コロナ禍でのオンライン機器需要増加に支えられた半導体需要、コロナ対策としての各国金融緩和が同社の株価を年初来2倍以上に高騰させました。
その結果、NVIDIA株の時価総額はIntelを約5割上回る約3000億ドルに達し、株式譲渡による買収資金捻出が可能となりました。潤沢なキャッシュポジション、超低金利の現在の環境から、積極的買収に打って出る判断は合理的と言えます。
また、SBGが大規模な資金調達を迫られる状況にあったことも、NVIDIAに好機をもたらしました。資金難のSBGはArm株の新規株式公開(IPO)を検討していたため、そこにNVIDIAが割り込んだ格好です。
各国規制当局による審査が数年に及ぶ場合、NVIDIA株の下落もあり得ます。そうなれば、買収実現を巡って緊迫した状況になるでしょう。
NVIDIAは声明で「Armの拠点はケンブリッジから変えず、世界レベルのAI研究施設を立ち上げる」「Armのビジネスモデル、ブランドを継承する」と強調。それだけ先行きに不安を抱えている証であり、今後の展開から目が離せません。
GPUは単純大量計算には強い一方、精緻で複雑な計算は不得意。演算の司令塔機能を果たすCPUとの組み合わせが重要であり、そこにNVIDIAによるArm買収の理由があります。
ArmのCPUとNVIDIAのGPUが結びつくと、AI(人工知能)時代のエコシステムが誕生すると予想されています。スマホ、PC、クラウド、自動運転車、ロボティクス等、あらゆる分野でNVIDIAとArmの組み合わせは優位性を確立するでしょう。
ファンCEOは「数年内に何兆ものコンピュータがAIを稼働させ、現在のインターネット・ オブ・ピープル(IoP)の数千倍に相当するIoTを創出する」と発言しています。つまり、何兆個ものデバイスが連動するネットワーク社会の出現です。
そもそも、NVIDIAという企業を知ったのは今から10数年前に見たNHK特集が契機。NVIDIAの社史を概観しつつ、それを振り返ります。
1993年創業のNVIDIAの最初のGPU製品「NV1」は、Windowsの3D(次元)映像描画機能が確立していない時期であったため、販売不調。製品デモ用のセガ「バーチャファイター」等のゲームソフトでの利用にとどまりました。
1997年、SGI(シリコン・グラフィックス・インターナショナル)の技術者が続々とNVIDIAに参加し、低価格かつパワフルな「RIVA 128」を発表。1998年の後継製品「RIVA TNT」もヒットし、NVIDIAは一躍GPUの主力メーカーとなりました。
1999年、PC用GPUとして世界で初めてジオメトリエンジンを搭載した廉価な「GeForce 256」がブレークし、NVIDIAの地位を不動のものとしました。
ジオメトリエンジンとは、3DCG において座標変換を行うソフトウェアやハードウェアのこと。3DCGは座標データ等を基にコンピュータ内の仮想3D空間に構築されますが、最終的には2Dスクリーン(モニター)上へ描画する必要があります。この3Dから2Dへの座標変換をジオメトリ処理と言います。
変換には膨大な演算が必要であり、PC用にジオメトリエンジンを搭載した廉価な製品が「GeForce256」でした。
それ以前にもプロ向け業務用の高価なジオメトリエンジン搭載GPUはありましたが、個人購入には超高価。NVIDIAはPC用チップに内蔵して販売し、ハリウッド映画級の3DCGが個人PCで実現可能となり、ユーザーや市場に衝撃を与えました。
その後、NHK特集が3DCG技術の革命的進化を取り上げました。映画「バットマン・ビギンズ」でバットマンがビルから落ちて地上に着地するシーンがあまりにもリアルなCGであったため、「役者がいらなくなる」と話題になった頃です。番組の中でジオメトリエンジンが紹介され、NVIDIAという社名を初めて知りました。
以降のGPUはジオメトリエンジン搭載が標準となり、搭載していない製品は商品価値を消失。これにより、NVIDIAに技術力で匹敵するATI等を除き、他の同業メーカーは淘汰。そして、ここからの経緯がNVIDIAとArmをつなげます。
PC用CPUメーカー2位の米AMDはチップセットへのGPU統合化を目指し、GPUメーカー2位の上述ATIを買収。これによりNVIDIAがAMDと取引する途は閉ざされ、NVIDIAはIntelへ接近します。
しかし同1位のIntelも自前のGPUを擁しており、同3位のVIAも別のGPUメーカーを買収。PC用チップセット向けのGPU市場が事実上消滅し、2010年、NVIDIAはチップセット事業からの撤退を発表しました。
そこでNVIDIAはArm系CPUを自社製GPUに統合したスマホ用Tegra、スパコン用Tesla、PC用GeForceの3製品に注力。つまり、Armをベースとしたのです。
そして、2016年頃に起こったAIのディープラーニングブーム。NVIDIAが2006年に開発したCUDA(クーダ、Compute United Device Architecture)がディープラーニングに適していたため、NVIDIAのさらなる成長につながりました。
現在、NVIDIAはAI、特に自動運転分野では圧倒的な存在感です。開発競争が過熱し、GPU搭載の超並列コンピュータの設備投資が集中。GPUは供給不足状態です。
余談ですが2001年クリスマス商戦で話題になったXbox、2004年発売PlayStation3、2017年発売Nintendo Switch、いずれもNVIDIA製のGPUを使用。
2019年、トヨタ子会社「TRI-AD」が自動運転分野でNVIDIAと提携。NVIDIAは実は身近な存在です。今後の動向を注視していきます。
(了)